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「神を知る」ということ

「神を知る」ということ
土橋 修

ヨハネの手紙一 2章1-6節

著者ヨハネは1章6-10で、「もし」行文を用いて異端グノーシス派の知識偏重の信仰に対し、逆説的に厳しく反論しました。「もし闇の中に罪の歩みを続けるなら、自らを欺き、真理は内になし」と、また「光の中に、御子イエスの血による救いを告白するなら、神のことばはわたしたちの内に生きるのだ」と。

この「もし」行文は2章にも続きます。ただ相手は教会内の信徒に向けられ、「わたしの子たちよ」と呼びかけられます。愛と柔和の響きが漂います。その目的は、信徒たちの心に残る、罪の負い目と悩みから、いっときも早く解放してあげたいとの配慮と見受けられます。

「たとえ(もし)罪を犯しても、御父のもとに弁護者イエス・キリストがおられます」とは、あたかも「迷える一匹の羊」への呼びかけです。「九牛の一毛」のたとえにも似た、数にも足らぬ者への愛の心が汲みとられます。「弁護者」は専ら被告側に立ち、彼を執り成す者です。「この方こそ」は、力強くイエスを指差し、彼が特別な方であることを明らかにします。そしてイエスの存在とその使命が、「罪を償ういけにえ」にあることを告げます。パウロも同じメッセージを告げます(ローマ3:25)。異端者はイエスを徳ある人とは評価しても、その受肉と血による償いは否認します。これに対してヨハネは繰返し、徹底的にイエスの受肉と血の償いを力説するのです。これこそキリスト教の福音だからです。

「神の掟を守る」とは、ヨハネ福音書3:16にも告げられる「小福音」の精神を守るということです。「掟」は「十戒」の条文に限ってのことではありません。凡ての神のことば、真理と愛の精神を指し、「守る」は罰則規定文を形式的に守るのとは異なります。形ではなく心を、文字ではなく精神と命を、汲みとって生きるということなのです。3〜5節に繰返えされるこのことばに、ヨハネの信仰の情熱が伺われます。

「それによって、神を知っていることが分かる」と彼は語を続けます。「汝静まりて我の神たるを知れ」(詩46:10)、と神からの呼びかけが聞こえてきます。人間の頭脳の力で知るのではなく、神からの働きかけで初めて悟る「知」があるのです。神の愛に触発されて、神への愛が目覚め、神を真に知るに至るのです。この「真知」は人生に於ける「平安」の源泉です。アウグスチヌスの言葉「人間は神に憩うまでは安きを得ず」が、その証言です。

本当は「神を知る」と言うよりも、「神に知られる」と言うべきです。主格は神です。キリスト教は啓示の宗教と言われます。上から示される神の教えの意が込められています。教え示される神のことばを、率直に従順に受け止め、神の内にとどまり、神の御心に生きることが、神を知る者の証しなのではないでしょうか。パウロもエフェソの教会に対して、次のように語っています。「ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。(エフェソ4:13)と5−6節に「人の内」「神の内」とあるのは、信仰の本質を外見・行為に見ないで、心の内に見る姿勢が強調されているのが伺えます。更にその心の内での祈りが強まるとき、信仰の成長も生まれるのです。その成長はやがて内に止まらず、生活の歩みに変化を及ぼします。内に外にその人の信仰の一致を見ることができるようになります。「事理一致」の信仰です。ヨハネの願い求めるのは、こうした内なる信仰と、外なる生活の一致です。基本的な信仰の問題が、当時の異端騒動の中で、教会が問われていたのです。しかしこれはまた、今日、教会の問題でもあり、私たちの信仰が問われている問題でもあるのです。この時代の急速な変化、特に生活的な面で、社会的・道徳的な面での移り変わりの早さに、目がくらみます。しかし信仰の世界(内なる世界)の真理は不変です。キリストの贖罪の信仰に堅く立ち、この道を歩みつづけましょう。

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