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種を蒔く人

種を蒔く人
梅田憲章

良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は百倍の実を結ぶのである。

マルコによる福音書 4章1-9,13-20節

このたとえは、4種の土地と4種の種のたとえを示しています。

「種」はみ言葉をさしていて、み言葉とはキリストの語った言葉、「福音」です。

イエス・キリストがこれまでが宣べ伝えてきた事柄、福音の内容をごくごく短く要約すると、「マルコによる福音書 1章15節 『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』 と言われた。」となります。

聖書に現われる4種の種は土地の性質によってその生育具合が異なります。が、生育する前に枯れてしまったもの、30倍、60倍、100倍に実ったものが記されています。

15節以降に記された、蒔かれた「種」の落ちた場所は、1節のイエスの「み言葉」を聞いたおびただしい数の群集の状況を表わしています。

15節「道端」とは、この地方の細長く分割された畑の間の踏み固められた小道のことをさします。主イエスの語られる宣教の言葉に対して、耳を傾けて聞きはするものの、み言葉がその人の心の中に根を下ろすことなしにサタンに取り去られてしまう人々のことのようです。

16,17節「石だらけの所」とは、み言葉を受け入れることによって、すぐに芽を出すが、根がはれないため日が昇ると焼けて枯れてしまう、すなわち、人生の歩みの上で、艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいて、罪に陥る人々のことのようです。 

18,19節「茨の中」とは、精神的不純物が心の中に満ちていて、この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、み言葉が身を結ばない人々のことをあらわしています。

20節「良い土地」とは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、この聞いて受け入れるという言葉は聞いて理解するにとどまらず、実行すること、主に倣う生活をすることまでを含むのであります。

もう一つ、このたとえがあらわしているのは、書かれた聖書の時代に即応したことがらです。

当時農夫たちは自分が蒔いた「種」の何割かは失われることを知っていました。しかし、それに落胆せず、確実に収穫があることを信じて、種まきを続けていました。この当時、同じように、主イエスは祭司、律法学者、ファリサイ派の人々と対立し、語る「み言葉」の何割かは、無駄に潰えていたのであります。主イエスはこのたとえを通して、弟子たちを励まして、多くの失敗事例にも関わらず、神は究極的には収穫を無にしえないことを私たちに確信させるのです。

このように主イエスと私たちの関係はいろいろな形で示されています。

それは今回のようなたとえの形で示され、聖書の記事を通してつたえられる啓示の形で与えられ、祈りや語り合いの中で聖霊降臨の姿をとって、上(神)から下(私たち)へという形であたえられます。

今日の聖書の箇所を詳しく見ていると、大勢の群集と主イエスのいる場所が湖の岸部と湖に浮かぶ小船の上というように、明確に同じ座標軸の上にいないことが示されています。(4章1節 イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた)お互いに目には見える、声は聞こえるけれども、近づくことが出来るのは主イエスだけなのであります。

私たちの努力を拒絶するこの断絶層は主イエスの側からは連続していて、主イエスによって始められなければ始まらないことを示しています。私たちの努力をこえて働く主イエスのキリストの恵みを、神の愛を、聖霊の交わりを感謝して受けようと願うのです。

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