主イエスとともに
梅田憲章
弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。
マルコによる福音書 4章35-41節
朝早くまだ暗いうちから祈り始めるイエスは、ガリラヤ湖の西岸、カファルナウム地方で、大勢の群衆に囲まれ、いろいろな癒しの業を行い、たとえ話で、神の国の内容や福音を語られました。十二弟子たちは行動をともにし、群集とイエスの間を取り持っていました。緊張の続く時間でした。その日も夕方になり、イエスは休息のときをかねて、舟でガリラヤ湖の東岸に向かおうと考えて、「さぁ、向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われました。それまではイエスの行動、言動に従って歩み続けていた弟子たちが、ここからしばらくは自分の意志で歩き始めるのです。ガリラヤ湖は漁師を職業としていた弟子たちにとっては行動しなれた土地で、ついてくる群衆もいなく、困ったらイエスに尋ねればよいのですから。
彼らはイエスをお連れしていこう、イエスにゆっくり休んでいただこうと決意して、群集を後ろに残し、イエスを舟に乗せ、すぐに岸を離れました。
ガリラヤ湖は周囲を山で囲まれているという地形上、しばしば激しい突風が湖面を襲い、荒れ狂います。このときもそうでした。マタイによる福音書8章24節では、「そのとき、湖に激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうになった」とあり、ルカ8章23節では「突風が湖に吹き降ろして来て、彼らは水をかぶり、危なくなった」と書かれています。
激しい突風が吹き荒れ、水浸しになるほど波をかぶる船、慌てふためく弟子たち周囲の騒がしさに対照的に艫(とも・船尾)のほうで枕をして眠るイエス。
漁師猟師出身の弟子たちは、ガリラヤ湖についても、舟の操船技術においてもイエスの存在は不必要だと考えていました。しかし今回の暴風雨は彼らが今まで体験したことのないものでした。
弟子たちは自分たちの得意な舟の上でおそれ、おじ惑っています。自分の力で解決できず、彼らは神なき人間の惨めさをあらわにしているのでした。
こんなはずではない。この暴風雨は、今までの知識、経験で解決は無理だ。自分たちの力を頼るのではなく主イエスの力に頼ろう。
弟子たちは恐怖のあまりイエスを起こし、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。
主イエス・キリストとともに進んでいくときでも、船は揺れます。イエスと共なる人生の歩みにおいても船上で暴風雨に苦しみます。イエスとともに生きるということは、私たちが苦しみや恐れから解き放たれる人生を歩むことではないのです。
舟の上という非常に狭い空間で、弟子たちは非常におそれますが、それは嵐の危険の中で、臆病になっただけではありません。毎日働いている湖、扱い慣れている船。豊かな経験、蓄積されてきた技能。これらが役に立たず、艫で休むイエスに頼らねばならないと決断したときの頼りなさ。神的存在に直面して生じた宗教的畏怖(いふ)です。
イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」
弟子たちは不信仰のゆえに、イエスに批判されます。主イエス・キリストとともに進んでも船は揺れる、しかし、人生の嵐は私たちを決して破滅させることは出来ません。弟子たちは、「非常に恐れて、『いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか』と互いに言った。」そして、主の道に戻ったのでした。
この船の中と同じように、自分を信じ、主イエス・キリストを頼りきれない不信仰と怖れ、臆病が私たちの信者の克服すべき問題といえます。そちらの道を選ぶか、こちらの道を選ぶか、主イエスはわたしたちに厳しく問うておられるのです。