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神に結ぶ力

                 説  教  「神に結ぶ力」三枝千洋牧師

聖 書  詩編130編1~8節 マタイによる福音書12章22~32節

 文学にも音楽にも古典とよばれる作品がある。それは単に古い作品ということではなくそれまでは無かった新しい作風を世に示し、時代を切り拓いたもの。古典は時代を超え、時間に研磨され、常に新しい。そして聖書はどの箇所をとってもそれまでに無い、時代を変えるような驚くべきこと、神について信仰について驚くべき言の葉を紡いでいる。

  例えば詩編130編。この詩篇は前半で詩人は「深い淵の底から」すなわち、失意のどん底から神の助けを叫び求める。

 罪を犯したことが「どん底」にある理由だ。イスラエルは律法を守ることによって神との正しい関係を持つと信じていた。だから罪を犯したものは裁かれなければならない。神から切り離されなくてはならない。「しかし」詩人は神に対し「赦しはあなたのもとにあり」すなわち、「あなたは赦してくださるお方です」と、信頼を寄せている。まずここが新しい。更にそれは単なる個人的なことではなく民族全体的に及ぶ罪の赦しだという。「主はイスラエルを罪から贖ってくださる」。「贖う」とは買い取ることだ。罪の奴隷となっている者を、買い戻すこと。罪あるものが、神に罪赦され、罪の縄目から解放され、再び神のものとなるというのだ。実に驚くべき、それまでは無かった新しい信仰がここに記されている。

 詩篇を編纂させたのはダビデ王だ。羊飼いの末の息子ながら統一イスラエル王国の初代の王となった人物。救い主は彼の子孫から出ると預言書に記されている。その一方で、ダビデはウリヤの妻の一件で自分が犯した罪の深さに慄き、神の赦しを切望した人でもあった。では、己が罪により裁かれなければならないはずの罪人が神に赦され、再び神の民とされるというこの驚くべき信仰の跳躍は、どうやってもたらされるか。それが記されているのが、今朝与えられたマタイによる福音書のこの箇所だ。

 さて、マタイによる福音書12章22節は、「その時」という言葉で始まる。これは「まさにその時」、決定的なことが起こり、時代が大きく動くその時、という意味だ。

  背景にあるのは安息日論争。十戒にある重要な掟を弟子が破りファリサイ派が注意した。安息日に薪を拾っただけで石打ちの刑になった事例がある重罪だ。これにイエスはダビデの事例を曳いて弟子を庇った。「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」、と。

 ファリサイ派はイエスを訴えるための罠を仕掛ける。9節以下だ。「片手の萎えた人」は罪人と同じく、イスラエルのコミュニティから外されていた。会堂の中に入ることなど許されるはずがない。主イエスが安息日に人を癒す行為、律法違反の証拠を得るためだ。

 その眼の前で主はこの人を癒された。「安息日に善いことをするのは許されている」と。ファリサイ派は主イエスを殺す相談を始めた。これは主と地方のユダヤ教共同体との決別の瞬間なのだ。マタイによる福音書はイザヤ書にある「傷ついた葦を折ることなく、くすぶる灯心の火を消すこともない」、憐れみに満ちた救い主の姿を描き、教条主義者との違いを明確にしている。

 「憐れみ」は「内蔵」と関係のある言葉。苦難の中にある人を見て、自分の内臓が引き絞られるような思いをすることだ。ベルゼブル論争の最初に記されている「その時」とは、苦難の中にある人への憐れみと引き替えに、ユダヤ人共同体との決別し、殺意に曝された「その時」だ。

 主が「悪霊に取り憑かれて目が見えず口の利けない人」を癒したのを見て群衆は皆驚き「この人はダビデの子ではないだろうか」と言った。それは、「救い主」を連想させる。すかさずファリサイ派がそれを否定する。「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と。

 かつて偶像ベルゼブブが北イスラエル王国の王を惑わし、王国滅亡に至る破滅の道を拓いたように、イエスはユダヤ教共同体を分裂させる悪魔のようだと言う。だが、彼らの論理には矛盾がある。主イエスが指摘しておられることはそこだ。ベルゼブルが他の悪霊と対峙する奇妙さだ。

 主はこの話に沿って悪魔の屋敷に押し入る話をする。「まず強い人を縛り上げなければ」、と。悪魔屋敷の強い人とは「死」だ。主は死を縛り上げ、無力化する。主の十字架いよって。「死よ、お前のとげはどこにあるのか。死のとげは罪であり、罪の力は律法です。 」(Ⅰコリ15章)詩編130編にある信仰の跳躍は何によってもたらされたか。それは罪人に対する神の一方的な憐れみとこの神への信仰による。主イエス・キリストにおいて啓示された神の憐れみと愛を先取りだ。

 主は私たちの破れをご存じだ。それにも係わらず礼拝者として呼び出して下さった。

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