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神に倣う者

説 教 「神に倣う者」 

                 岸敬雄伝道師

聖 書  詩編34編12~15節 エフェソの信徒への手紙5章1~5節

 

 詩編34編の作者は「子らよ、わたしに聞き従え」というのです。ここで言われている子とは、自分の実の子どものことか、自分に聞き従う弟子たちのような存在についてかはわかりませんが、自分が心にかけている者、もっと言うなら愛を注いでいる人々に対しての勧告あると考えられます。

 その様な人々に対して、どの様にすれば、喜びをもって生き、長生きして幸いを見るように生きる事が出来るかを教えるのです。それはを、主を畏れることであり、具体的には、舌を悪から、唇を偽りの言葉から遠ざけ、 悪を避け、善を行い、平和を尋ね求め、追い求めよ。というのです。この様な行いこそが主を畏れることであり、喜びをもって生き、長生きして幸いえる秘訣であると言うのです。

 神に愛されている子どもであり、聖なる者にふさわしく生きる者に対して、詩編の作者と同様に、パウロも「あなたがたは神に愛されている子供ですから」と、子どもであると言うのです。パウロはエフェソの信徒に対して決して決して、子ども扱いしているわけではなく神によって愛されている子ども、神様が親のごとくに愛を注いて下さっている者なのだと言い、神に愛されている子どもなのだとエフェソの人々をさとしているのです。そして、そのことを前提として話しているのです。

 この言葉は、この手紙を読んでいる神様から愛されている全てのクリスチャンへのメッセージとして聞いても良いメッセージでありましょう。

 パウロは、神に愛されている子供ですから、「神に倣う者となりなさい」と言います。

 人であるならば、親は時として間違いを犯し、反面教師となることもありますが、本来、子どもは、誤りの無い親の姿を見て、まねて育っていくのではないでしょうか。ましてや決して過ちなど犯すはずの無い神に、「倣う者となりなさい」とパウロは言っているのです。

 さらに、パウロは、「あなたがたも愛によって歩みなさい」と命ずるのです。それは、主イエス・キリストが私たちを愛して下さったようにと言うのです。

 では、主イエス・キリストは私たちのことをどの様に愛して下さったのでしょうか。それは、主イエス・キリストご自身が、御自分を香りのよい供え物、すなわち、いけにえとして、わたしたちのため献げられたことにより示された愛であり、それに従って歩むようにと言うのです。

 イエス様が自分を供え物とされた、それは、イエス様が十字架にお架かれになった出来事を表しています。イエス様の十字架の苦難については、旧約聖書の時代から、イスラエルの人々はその意味を理解していたかどうかは分かりませんが、動物の初子を神様にいけにえとして献げてきたように、そのひな型として神様へのいけにえを捧げてきたのでした。イエス様の十字架は、神様に対するわたしたちの罪の代価であり、可私たちの贖いのために神様に献げられたのでした。

 そして、重ねて言いますが、イエス様の十字架の上の苦難が、私たちへの愛によって行われた行為であることは、忘れてはならない重要なことであります。

 だからこそ、パウロは、あなたがたも愛によって歩みなさいと命じるのです。 神に倣う者であり、愛のよって歩むものに対してパウロは、もう子どもとは言わず、「聖なる者」というのです。その様な、聖なる者がどの様にしなければ成らないかが続いて語られて行きます。

 あなたがたの間、すなわち教会員の間では、聖なる者にふさわしく振舞う様にと言っているのです。もちろん、教会内でと言う様な制限をつけずに全人類に対して出来ればよいのでしょうが、当時としては教会に対する迫害もあったため、自分たちの間では、聖なる者にふさわしく振舞う様にと言うのです。

 さらに、みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはなりません。と戒め、加えて、 卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談もふさわしいものではありません。と戒めを続けた後に、それよりも、感謝を表しなさいと言うのです。

 みだらな事や色々な汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にすること、卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談のようなことに時間を費やすのではなく、感謝を表すことに心を留めるようにと注意するのです。何に感謝することが出来るでしょうか。それは多くのことが考えられるでありましょう。

 例えば、現在健康であること、もちろん私も多くの薬を飲んで生かされていますが、それであっても現在生きて、この様に活動できることは十分に感謝に価します。そればかりか自分の体の痛みに関しても感謝できるのではないでしょうか。なぜなら、その痛みはこれ以上悪くなる事が無いように休ませたり、治療するようにとの警告となるのですから。

 もちろん自分自身からの物ばかりではなく、人から行われたよき働きに対しても感謝できるはずです。それがどんな小さな行為であったとしても。

 そして、その感謝できる行為の最たるものが、主イエス・キリスト自らが十字架にお架かりになって、自分を献げものとされた愛の行為なのです。

 そして、次にパウロは神の愛の行為としてふさわしくない行為である、「 すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝者」をあげてその様なものは、「キリストと神との国を受け継ぐことはできません。このことをよくわきまえなさい。」というのです。

 逆に言えば、キリストと神との国を受け継ぐためには、愛を持ち感謝して、神に倣う者として、すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝者のように成らない様にすれば良いとパウロは言っているのです。パウロの勧めに従って今週も歩んで行きたいと願うのです。

 

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