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神の子イエス   

説  教 「神の子イエス」   岸 敬雄伝道師  

聖 書 詩編63編1~6節    ヘブライ人への手紙4章14~16節

 

 

 本日から受難節(レント)に入ります。イエス・キリストが十字架へ向けての苦難の道を思い、十字架の苦難とそれを乗り越えたイースターの出来事、復活の出来事へ向けての備えをしていく時期だと言えるでしょう。

 イエス様の苦難を思い、肉などを食べない様な習慣があったとも聞きますが、私たちは時にその様な制限を自分自身にかしてはおりませんが、精神としてはイエス様と共に苦難を味わう思いを持つことは必要なのでありましょう。

 詩編63編では、神を探し求めている時の苦難と聖所にて神を仰ぎ見た時の喜びが対照的に描かれています。

 詩編63編の作者は、この詩を、ダビデの詩として、ダビデが荒れ野にいた時の詩として歌っています。ダビデが、荒れ野において、神を捜し求めている様子を歌っているのです。

 ダビデは荒れ野をさ迷い歩き、神様を捜し求めているのです。ダビデは、自分の魂は水に渇いているように神様に対して渇いていると訴えます。

 そして、捜しても見つけることができない神に対して、それでも待ち続け、今度は魂ではなく体も乾ききった大地のように衰え、水の無い地のように渇き果ててしまっていると言うのです。魂は神を渇き求め、肉体も乾ききった大地のように衰えて、水の無い地のように渇き果て、神を求め続けているのです。その様に、体も魂も渇ききっているダビデは、聖所で神様を仰ぎ望み、そして神の力と栄えを今仰ぎ見ていると言うのです。

 神様の慈しみは命にも勝る恵みだと言います。何にも増しての恵みだと言っているのです。この様な何よりの恵みに対して、わたしの唇はあなたをほめたたえると言うのです。そして、命のある限り神をたたえて手を高く上げ、御名によって祈るのです。

 そして、乳と髄のもてなしを受けたように渇ききっている魂は満ち足りたと言い、渇いていた時と満ちた時が対比的に歌われているのです。わたしの唇はあなたをほめたたえると、賛美の声をあげ、たたえ祈りを捧げている様子が描きだされるのです。

 その後に、さらに神に対する賛美が続きます。「命のある限り、あなたをたたえ 手を高く上げ、御名によって祈ります」と讃美します。そして、渇ききっている魂は満ち足り、乳と髄のもてなしを受けたようだと言うのです。私たちにとって、ダビデが聖所で仰ぎ望んだ神の力と栄えとはいかなるものでありましょうか。命にもまさる恵みである神の慈しみとは何でありましょうか。その答えを私たちは新約聖書から見てみましょう。

 本日のヘブライ人への手紙4章14~16節において、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられている、と言うのです。

 この偉大なる大祭司、神の子イエスこそが、私たちの救い主であり、神の恵みであり慈しみ賛美されている御方であるとはっきりと描かれているのです。

 その大祭司である神のイエスは、「わたしたちの弱さに同情できない方ではなく」とい言われている方なのです。言い換えるならば私たちを同情して下さる方だと言うのです。だからこそ、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか、と言うのです。

 私たちが言い表している信仰とはいかなる信仰でありましょうか。それは、まさに主イエス・キリストに対する信仰です主イエス・キリストが私たちの救い主であると言う信仰であります。その信仰を確かめる為に、主なるイエス・キリストはどの様なお方であるかが、続いて語られて行くのです。

  この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたかただというのです。

 イエス様が試練に合われたのは、宣教を始める前に荒れ野においてサタンよりお受けに成ったのをはじめ、十字架にお架かりになる前のゲッセマネにおける苦しみ、もちろん十字架上で私たちの罪のためにのお苦しみもありましょうが、そこまで至るまで、御生まれに成ってすぐに命を目あわれたのをはじめ全御生涯を通じて苦しみをお受けになられ、人としての試練を私たち同様にお受けに成られたのです。だからこそ、私たちを憐れみ、恵みを与えて下さるのです。私たちもその恵みを望んでよいのです。

 私たちは大胆に恵みの座に近づこうではありませんか、神の大祭司、私たちの救い主である主イエス・キリストの恵みのみ座に。

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