過去の説教

水と霊から

三位一体後(花の日)主日礼拝

水と霊から

ダニエル書6章19~23節  ルカによる福音書16章19~31節

 

 本日は、花の日、子どもの日礼拝に成ります。例年だと教会学校の子どもたちと共に礼拝を捧げて、その後、近くの交番や消防署を訪問して花などを渡していつも私たちのために働いてくれている人々に感謝を伝えたり、高齢者施設に訪問して、普段教会に来ることが困難な方々を訪問して、信仰の先輩たちに感謝を伝えたりする日に成っています。今日は残念ながら そのような訪問をする事が出来ないのは残念ですが、きっとこれから先、再びそのような教会の働きとしての訪問が出来る平穏な日々を取り戻すことができると信じています。

 本日のダニエル書6章の話は有名な話です。本来ですと、昨年の3月の第1週に教会学校との合同礼拝でも御言葉から聞いたのを覚えていらっしゃる方もおいででしょうか。

 本日は、ダニエル書の6章は、ダニエルが、妬まれて罠にはめられて獅子の穴に落とされた話の後半部分に成ります。王様が出した命令を利用されてダニエルは獅子の穴に落とされてしまいました。しかし、王様の本心は、ダニエルを心配していたのでした。王様はまさに気が気ではなく一晩中寝る事も出来ずに過ごしたのでした。

 そして、朝早くダニエルのもとに行って安否を尋ねたのでした。するとダニエルは、ダニエルは王に答えた。「王様がとこしえまでも生き永らえられますように。」とあいさつを述べてから、

  「 神様が天使を送って獅子の口を閉ざしてくださいましたので、わたしはなんの危害も受けませんでした。神様に対するわたしの無実が認められたのです。そして王様、あなたさまに対しても、背いたことはございません」と神様が天使を送って救われたと言ったのです。ここで、自分の力によってではなく、全ては神様の業によって救われたと言うのです。ここでダニエルが言っている天使がどの様なものであったかは、これ以上の言及がないため分かりませんが、神様の働きの業の象徴であることは確かでありましょう。

 神様の働きについてダニエルは天使と言っていますけれども、本日のイエス様の譬えではどうでしょうか。本日のルカによる福音書の物語は、金持ちとラザロのたとえ話として知られている話です。

 ラザロとは、マルタとマリアの兄弟でイエス様が一度死んだのを生き返らされたラザロと同じ名前になっています。それに対して金持ちについては、ただ金持ちとだけ言われていて名前が出てきていません。この二人に対するイエス様の思いがこのあたりにも出ているような気がします。

 ダニエルでは天使でしたが、ラザロと金持ちのたとえ話ではアブラハムが出てきます。金持ちは父アブラハムと呼びかけています。パブラハムとは歴史に出て来るイサクの父親であるアブラハムと言うことではなく、このイスラエルの父祖、イスラエルの元となった人としてのアブラハムに呼びかけているのです。

 そして、新共同訳聖書では「宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。」となっていますが、以前の 口語訳聖書では「アブラハムとそのふところにいるラザロとが、はるかに見えた。」と言う様になっており、新しい、聖書協会共同訳聖書でも「アブラハムとその懐にいるラザロとが、はるかに見えた。」という訳に成っています。いのちのことば社の新改訳聖書においても「アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。」となっています。

 現在私たちが使用している新共同訳聖書では分かり辛くなっていますが、口語訳や、聖書協会共同訳聖書で言われている「アブラハムとその懐」と言う言い回しは、それ自身でユダヤ教において天国を表す表現だったと言われているのです。ですから、この話を聞いている人は、金持ちがハーデス、言ってみれば地獄にいて、ラザロがアブラハムの懐、すなわち天国にいると対比されていることが良く分かったのです。

 ここで、ラザロはこの地上では、まことに悲惨な生活をしていたにもかかわらず死んだ後には良い暮らしを送ることができた。その様な話と見る事も出来るかもしれません。しかし、イエス様は本当にその様な死後のご利益の為に現世の苦しみを耐え抜けと言っているのでしょうか。そうだとしたら、死後の話はもっと良い暮らしをして居るラザロが中心となっていなければならないのでしょうか。

 この話では、金持ち、救われていないものに話の中心があるのです。救われないものがどの様な人であるかが描かれているのです。金の執着しているファリサイ派の人々にむけて語られているから、行ってみれば彼ら、金に執着している人々の最後の救われない様子が例えられているのだと言えます。

 私たちはそのようにこの世のお金に執着してないから大丈夫でしょうか。そのようなわけにはいかないのではないでしょう。

 本日の二つの話の中で不思議なのは、どの様に災いからから救われたかが描かれていないと言う事です。私たちはいかにしたら救われるのか、それが描かれていません。救われた結果しかないのです。ラザロやダニヘルは救われるべき人で、金持ちは救われることができない人なのでしょうか。

 そこのカギは、最後にアブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」と言った言葉に鍵が残されているのではないでしょうか。悔い改める条件として「モーセと預言者に耳を傾け」ることが救いのカギだと言っているのではないでしょうか。もし今与えられている律法や預言者の助言、すなわち、神様からの勧告を受け入れて悔い改めることができるならば救われることができるのです。その事が出来ない、金に執着している人たちは、死者がよみがえって忠告するような奇跡が起こったとしても、決して神様の言葉を受け入れて悔い改めることはできないと言っているのです。

 先週水と霊によって新しく生まれ変わる事こそが救われる道なのだと言うことを申しましたが、そのことをイエス様が復活した後の弟子のように、しっかりと知らしめてくださったのです。私たちを含めてみんなが歩み続ける道として。

 

 

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