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説教「新たに生まれる」

岸敬雄伝道師

詩編145章17~21節  ヨハネによる福音書3章1~15節

 

 「主はそのすべての道に正しく、そのすべてのみわざに恵みふかく」と、詩編の作者は告白しています。主はそのすべての道は正しいと言いますが、全ての道とはいかがなものでありましょうか。主の道は一本正しい道だけなのではないでしょうか。主の道はすべて正しいのです。そして、そのすべてが、と言っています。そのとはどう言う事でしょうか、ここで使われているそのに当たる原語の前置詞には、(理由,代価,手段,場所,時の)「で」 と言う意味があります。時間とみれば、主の御業は何時でも正しい、場所と取れば、主の業はどこででも正しいと言うことになります。主はどんな時でもどんな所でも正しく、その御業は恵み深いと言うのです。

 どの様な苦難に思える時であるとしても、どんなに困難に見える場面に付き合ったとしても、神様の道であれば、それが神様の業であるならば、そこには神様に恵みが深く与えられていると言うのです。困難と思えるものであっっても、主の恵かも知れないのです。

 では、主はどの様な人に近くにいて下さるのでありましょうか。それは全ての主を呼ぶ者に対してであり、それも誠をもって主を呼ぶ者に対してだというのです。

 主を呼びぶあったては、誠が無くてはならないのです。誠をもって主を呼ぶので中れば、そこに私利私欲のような悪心があってはならないのです。誠をもって主を呼ぶ者でなければならないと言うのです。

 さらに、主がどの様な者の願いを満たしてくれるかと言えば、それは恐れる者の願いであり、主を畏れる者の叫びを聞いて、そのものを救われると言うのです。これは主への信頼を表すと共に、ここで言われている言葉は、いわば自分の信仰を告白している言葉だともいえましょう。さらに、「主はおのれを愛する者をすべて守られるが、悪しき者をことごとく滅ぼされます。」というのです。

 さらに、「主はおのれを愛する者をすべて守られるが、悪しき者をことごとく滅ぼされます。」と言うのです。そして、主の守られるものいと滅ぼされる者との違いを描がき出されています。決して主は、万人救済、全ての人を分け隔てせずに救って下さるとは言わないです。

 その上で「わが口は主の誉を語り、すべての肉なる者は世々かぎりなくその聖なるみ名をほめまつるでしょう。」と自分の口が主の誉れを語り、さらに、すべての肉なる者にもで話を広げて、時間的にも世々限りなくと、自分の理解できる時間の全てにおいて、その聖なる御名が讃美されると、主を賛美する言葉でこの詩編は締めくくられるのです。

 詩編145編には、救われるべき人と滅ぼされるべき人の選別のような厳しさが描かれていると共に、いかなる時にも主に対して誠をもって呼び求める者には主が近くにいて、恵みを与えて下さると言う信頼が述べられているのです。いかなる時においても、困難な時においても、順調な時に置いても、それが主の道であるならば。

 本日新約聖書の中に出てきたニコデモと言う人は、主によって守られる人だったのでしょうか。それとも滅ぼされるべき人だったのでありましょうか。

 コデモは、夜分に人目を忍んでイエス様のもとを訪れてきました。 ニコデモは、社会的にはファリサイ派に属して、ユダヤ人の議員であったと書かれています。ファリサイ派の人々は律法に厳格な信仰深い人たちだと人々から認識されていました。さらに、ユダヤ人たちの議員だったと言われていることから、社会的地位も高い、政治的力もあるような、ユダヤ人の指導者であったであろうことが考えられます。

 そんな偉くて知識のあるはずのニコデモが、イエス様のもとに、昼間堂々と訪れて質問する勇気がなかったのです。なぜ、ニコデモは昼間堂々とイエス様に質問する事が出来なかったのでしょうか。それは彼が、自分の仲間であるファリサイ派の人々や律法学者の人々が行っていた様な事をしようとするわけではなかったからです。イエス様に質問していたファリサイ派の人々や律法学者の人々は、イエス様にわなを掛けて罪に陥れようとか、訴える口実を見つけようとする目的で質問をしていたからです。

 しかし、ニコデモは、その様なイエス様を罠に書掛けようとしとぃる人々とは違っていたのです。どの様に違っていたかについては、イエス様のことを「ラビ、神のもとから来た教師であると言っていることからわかります。」といっている言葉からも、嘘でもお世辞でもなくイエス様のことを信頼していることが伺えます。そのことは、これから後のイエス様とのこれからの問答から見ても確かでありましょう。

 ニコデモは昼間に訪ねて来る勇気を持ち合わしていないけれども、イエス様のことをある程度正しく理解していたことも確かだったでしょう。ニコデモにはユダヤ社会に現実的に生きている人として、自分を守る弱い面と、イエス様のことを正しく理解して、神様の教えを正しく理解して行きたいと渇望している人間としての両方を持っていたことを見出すことができます。

 この様な両面は、私たちの中においてもあるのではないでしょうか。イエス様に従って生きていると言いながら、世の中のことで心惑わされている二面性がある私たちの姿をニコデモは、まさに代表していると思えるのです。

 そんなニコデモに対して、イエス様は「はっきりいっておく。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない。」と言われたのです。

 ニコデモは、「年と取った者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母の胎内に入って生まれることができましょうか。」と答えたのでした。

一見するとイエス様の言っていることが無茶なようにおもえ、ニコデモに言っている事の方が、筋が通っているように聞こえますが、

 イエス様は「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。」と答えられたのです。ニコデモがそのようなことがありましょうかと言い、イエス様は、「あなたはイスラエルの教師でありながら、これぐらいのことがわからないのか。」と言うのです。

でも、ニコデモは本当に知らなかったのでしょうか。私にはニコデモは知っていたけれども、新しく生まれることができない自分を弁護するために、イエス様とこの様な問答をしていたのではないかと思えるのです。

 ニコデモが、「水と霊とから」生れた、と言う記録は聖書の中には残っていません。ニコデモがこれから先どの様な人生を送ったのかはわかりません。しかし、ニコデモは、イエス様をとらえようとした時に、「まず相手に意見を聞くべきだ」、と言ってイエス様のことをかばい、イエス様を葬られる時に、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持ってあらわれましたのでした。

 イエス様に対して好意を持ち続けていたことは確かなようです。世の中にもイエス様に好意を持っている人は教会の外にも多くいると思います。しかし、ここで一歩進んで、新しく生まれる。すなわち、福音によって新しいいのちへと生まれ変わるために、水と霊とから生まれ変わらなければならないとイエス様は言われているのです。

 イエス様を信じることは大切です。きっとニコデモもイエス様のことを神様から来た良き教師であることは信じていたでしょう。しかし、その先、イエス様を救い主であるとまで、はたして信じ切れていたかが問題です。イエス様のことを救い主として信じ、受け入れられたとするならば、イエス様が言われるように水と霊かによって新しく生まれ変わることを選ぶことができるはずです。言い方を変えれば、主イエスを救い主として信じることができるなら、洗礼を受けて、新しいいのちへと生まれ変わり、教会へと入る決意をする事へと導かれるのです。

それが、主イエス・キリストが、私たちに永遠のいのちへの道として示された方法だからです。

モーセが荒れ野で蛇を挙げたように、人の子、イエス様がはげられなければならないと言うのです。イエス様は実際に十字架にあげられることになったのであります。それは、イエス様を信じる者のが皆、人の子によって、すなわちイエス様の十字架上の贖いの血によって救われ、永遠のいのちを得る為なのです。

 

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