過去の説教

幸いに至る道

幸いに至る道
大坪章美牧師

ヘブライ人への手紙 6章1〜12節

預言者エレミヤの活動は18歳の頃、紀元前627年に始まりました。然しイスラエルの民の希望の星であった第16代目ヨシヤ王は、エジプトの王ネコとメギドの戦場で戦って戦死してしまいます。この後南王国ユダの王は目まぐるしく代わりました。そして20代目の王として、ヨシヤ王の三男であるゼデキヤがバビロンの王ネブカドネツァルによって立てられました。

エレミヤ書6:8節には、「エルサレムよ、懲らしめを受け入れよ。さもないと、わたしはお前を見捨て、荒れ果てて、人の住まない地とする」と語られています。エレミヤはエルサレムの責任ある人々が、全て、欺いている、と非難しています。身分の低い者から高い者まで、責任ある全ての人々が所有欲の虜になっていることを、叱責しています。喜び、平安は、わたしたちが自分のためではなく、キリストのために行動する時にやって来ます。自分の欲のための行動は、他の人を傷つけ、貶めることに繋がりますが、隣人の徳を高め、益を望む時には、真の平安が与えられるのです。

では、ユダの民は、どうすれば良いのでしょう。エレミヤは、主の言葉を語りました、16節、「さまざまな道に立って、眺めよ。昔からの道に問いかけてみよ。どれが、幸いに至る道か、と」と勧めました。
このエレミヤが勧めた、「さまざまな道に立って、眺めてみよ。どれが幸いに至る道かと」というみ言葉を実践した指導者が、新約聖書の時代にも、いたのです。

それがヘブライ人への手紙の著者です。手紙の宛先は、恐らく、ローマのある教会の中の、ユダヤ人キリスト者の群れであろう、という事です。そして彼らは、主イエスに対する信仰を投げ捨てて、古巣のユダヤ教に復帰しようという思いを抱き始めている群れなのです。

6:4節からは、著者は、読者のユダヤ人キリスト者の群れに厳しい指摘をしています。「一度、光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊に与るようになり、神の素晴らしい言葉と、来るべき世の力とを体験しながら、その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち返らせることは出来ません」と、語っています。

この手紙の読者であるユダヤ人キリスト者の群れは、“再び、ユダヤ教へ復帰すること”を考えているのですから、この著者の言葉は、厳しい指摘でした。著者は、「キリストの死と復活が一度限りの出来事であるから、受洗の恵みも、一度限りのものであって、その、神の恵みを拒絶するのであれば、二度と、回復の機会は与えられない」と、言っているのです。何故ならば、それは、「神の子を、自分の手で、改めて、十字架につけ、侮辱する者だからです」と述べています。

9節からは、著者は、読者たちが堕落してしまったのではなく、背教の危機にあることを意識して、救いの望みを語ります。読者たちに対して、「愛する人たち」と、呼びかけています。11節で、「わたしたちは、あなたがたおのおのが、最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います」と、記していますが、教会の課題は、教会員一人ひとりの課題であって、それぞれが、教会の課題を、自分の課題として果たす時にだけ、教会員であり続けるのです。

最後に著者は、語っています、「あなた方が怠け者とならず、信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人達を見倣う者となってほしいのです」と、心の内を明かしています。著者が語っている、「約束されたものを受け継ぐ人達」が、誰を指しているのか、と申しますと、信仰者の父と言われる、“アブラハム”が考えられます。ヘブライ人への手紙の著者は、イエス・キリストへの信仰に自信を無くした、読者の群れに、「アブラハムを見倣いなさい」と、勧めているのです。

そして茲で私達は、改めて、預言者エレミヤがイスラエルの人々に語った言葉、「さまざまな道に立って、眺めよ。昔からの道に問いかけてみよ。どれが幸いに至る道か」という勧めの言葉を思い起こします。エレミヤは、「幸いに至る道」を見出して、「その道を歩み、魂に安らぎを得よ」と語りました。その“道”はどこにあるのでしょう。著者は、「アブラハムを見倣って幸いを得、魂に安らぎを得よ」と、勧めているのです。

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