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輝かしい嗣業

輝かしい嗣業
大坪章美牧師

コリントの信徒への手紙二 9章1-8節

詩編16篇の作者は、もともと、カナンの先住民であって、イスラエルの人々が、ヨシュアに率いられてヨルダン川を渡り、約束の地、カナンを征服した時に、イスラエルの唯一の神、ヤハウェ信仰に改宗した人物であろうと、考えられます。作者は、先ず、神に祈っています。「神よ、守ってください。あなたを避け所とするわたしを」と、嘆願の祈りを捧げています。詩編作者が初めに、「神よ」と呼びかけた言葉が、ヤハウェではなくて、“エル”であったことは、この詩編者の身元を推測する根拠となっています。即ち、もともと、カナン人であったであろうことが想像されるのです。

作者は、カナンの神々と訣別するために、行ってはならない、ふたつのしきたりを挙げています。ひとつは、「血の灌祭」、もうひとつは、「神々の名前を唱える習慣」でした。6節での祈りは、単に、外面的な、物理的な土地配分の問題ではなく、もっと深い、神様とのつながりを秘めています。7節のはじめの言葉、「わたしは主を讃えます」という祈りは、作者が自らの歩みを振り返った時、神の導きが、どれほど豊かに働いていたかを悟ったが故の、祈りです。作者にとって、“祈り”は、信仰に生きる上で、欠かせないものです。決して、神の目の届かない所で生きる事は出来ません。“祈り”とは、神の導きと懲らしめによって、現在の自分を超えた姿に、高められていく為の場所なのです。

このような、神様から与えられる“輝かしい嗣業”について、パウロも、コリントの信徒への手紙二で、語っています。9:1節からは、「エルサレムの信徒のための献金」という小見出しが付いています。この、「献金」とは、エルサレム教会の貧しい人々に対するものでした。もともと、エルサレム教会の成り立ちが、ユダヤ教からキリスト教に改宗したユダヤ人キリスト者が集まっていた教会でした。ユダヤ教社会の中でのキリスト教信仰は、ユダヤ人からの迫害や、貧困など、多くの苦難や、困難に耐えながらの歩みでした。

パウロは、このことを誰よりも憂慮して、伝道旅行で教会に立ち寄る度に呼びかけて、エルサレム教会を支えるための献金を募っていたのです。

パウロは、「わたしは、あなた方の熱意を知っているので、アカイア州では、去年から準備が出来ている、と言って、マケドニア州の人々に、あなた方の事を誇りました。あなた方の熱意は、多くの人々を、奮い立たせたのです」と、褒めそやしています。パウロは、献金の勧め方が、本当に上手な人でした。マケドニア州にある、テサロニケやフィリピの教会の人々には、「アカイア州にある、コリント教会は、随分、献金の準備が進んでいる」と言って、称賛したというのです。ですから、「今度、マケドニア州の各教会の人々が私に同行して、コリント教会を訪問した際に、献金の準備がされていなかったら、あなた方も、わたしも、恥をかく事になるので、そうならないよう、私が言った通り、用意してほしいのです」と、訴えているのです。

そして、5節の終わりに、「渋りながらではなく、惜しまず差し出したものとして、用意して貰う為です」と言っています。その献金、即ち贈り物は、「義務としてではなく」、「自己満足の為でもなく」、「特権意識からでもなく」、唯一、“真の与え方”である、「愛に迫られて、与えるもの」であってほしいと、語っています。
パウロは、惜しみなく与えることの幸いの原理を、語っています。「惜しんで、わずかしか蒔かない者は、刈り入れも僅かで、惜しまず、豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです」と、言っています。

神様は、コリントの人々が、自分の為に必要とするものを、与え得るだけでなく、むしろ、それ以上に与え、それによって、“神から受けた人々が、更に、他の人々にも、与え得るように、させられる”のです。

これこそ、尽きる事の無い、“贈り物の連鎖”です。イスラエルの民はカナンに侵入して、約束の土地を割り当てられ、「輝かしい嗣業」と、神を讃えました。私達は、今、「神様は、自分の為に必要とするものを与えて下さるだけでなく、むしろ、それ以上に与えて下さる」ことの上に、「輝かしい神の嗣業」を、見るのです。

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