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永遠の命の言葉

永遠の命の言葉
大坪章美牧師

ヨハネによる福音書 6章59〜69節

預言者アモスが生きた時代は、ソロモン王の死後、紀元前931年から始まった南北二王国の時代に入ってからの事です。その頃の北王国イスラエルは、第13代目の王ヤロヴアム2世が支配しており、その治世は紀元前793年から753年までの41年間でした。

アモスが、神の召しに従って北王国イスラエルの都サマリアに上ってイスラエルの滅亡を預言し、都サマリアの陥落を語ったのは、ヤロヴアム2世の時代で、北王国イスラエルの最後の繁栄の時代でした。支配者達は、しばしの繁栄の故に、傲り高ぶって、貧しい人々を苦しめていました。預言者アモスは、この、支配者達の横暴を批判して、王国の滅亡を預言したのでした。

アモス預言しました。「見よ、その日が来れば、わたしは大地に飢えを送る。それは、パンに飢えることでもなく、水に乾くことでもなく、主の言葉を聞くことのできぬ、飢えと渇きだ」と、神様は語られました。

この時から八百年ほども後の時代のエルサレムです。イエス様の12人の弟子たちも、この、アモスの預言のように、神の言葉を聞けなくなるかも知れない、という窮地に立たされたことがありました。ヨハネによる福音書6:60節には、穏やかならぬ話が記されています。「ところで、弟子達の多くの者は、これを聞いて言った。『実にひどい話だ。誰がこんな話を聞いていられようか』」という、日頃イエス様に従って、教えを乞うている弟子達の言葉とは思えない激しい口調です。

ここで、弟子たちが、「ひどい話」、「こんな話を聞いていられようか」と息巻いている、「ひどい話」とは、少し前の、51節から始まっている、イエス様のお言葉に対するものでした。そこでは、「わたしは、天から降って来た、生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」と言われています。

この、イエス様の、「わたしが与えるパンは、世を生かす為のわたしの肉のことである」という言葉に、激しく反応したのが、イエス様の弟子たちの多くの者でした。52節には、「『どうして、この人は、自分の肉を我々に食べさせることが出来るのか』と、互いに激しく議論し始めた」と、記されています。

イエス様は、確かに、ユダヤ人が嫌悪するようなお話をされました。54節です、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を、終わりの日に復活させる」と話されました。これは事実です。今、私達キリスト者は、イエス様の体としてパンを食べ、イエス様が流された血潮としてぶどう液を、飲んでいます。皆様、お分かりの通り、イエス様は、聖餐の儀式のことを話しておられたのでしたが、弟子たちには、このことが理解できませんでした。

イエス様は、改めて、“霊”の大切さを語られます。63節です。「命を与えるのは、“霊”である。“肉”は、何の役にも立たない」と、言われています。人間を、根元的に生かすものは、“神の霊”であって、決して、“肉”ではありません。イエス様が言われた、「肉を食べ、血を飲む」という言葉も、これを、物質的に理解することは、愚かなことです。聖餐式のパンを食べ、ぶどう酒を飲むこと自体によって、命が与えられる訳ではありません。問題は、「パンとぶどう酒に与ることによって、“霊的な命”受ける」ということなのです。

このようにして、イエス様の、ガリラヤ伝道の最後の時が来ました。ガリラヤ伝道を終えて、エルサレムへ出発される前に、多くの群衆との決別もありましたが、これまでイエス様に従って来た弟子達さえも、イエス様から離反しようとする危機でもありました。

イエス様は12人の弟子達に言われました。「あなた方も離れて行きたいか」と問われたのでした。

そこで、12人の弟子達の代表格であるペトロがイエス様にお答えしました。「主よ、わたし達は、だれのところへ行きましょうか。あなたは、永遠の命の言葉を持っておられます」と申し上げたのです。ペトロにとって、他に行くべき人は誰もありませんでした。ただ、イエス様だけが、“永遠の命の言葉”を、持っておられたのです。わたし達も、み言葉を通して、「永遠の命の言葉」を聞く事ができる幸いを感謝したいのです。

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