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永遠の生命に入るには

永遠の生命に入るには
大坪章美

ローマの信徒への手紙 2章 11-16節

ダニエル書の12:1節からは、神によって定められた、終末についての期待が語られます。「その時」とは、アンティオコス四世の、“死の時”です。いまだかつて、人間が考えた事の無い程の艱難がやって来る事が、まず、最後の時の、一つの徴です。そして、2節で、復活の告知がなされています。「多くの者が、地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り、ある者は、永久に続く恥と憎悪の的となる」と記されています。「死が取り除かれる」という事、これが、最後の時についての、第二の徴です。2節で記された、「多くの者が、地の塵の中の眠りから目覚める」という宣言は、「死が取り除かれる」という宣言なのです。

然し、この事は、全ての人に起こる訳ではありません。1節に、「然し、その時には救われるであろう。お前の民、あの書に記された人々は」と、記されていましたように、“選別”即ち、“より分け”が行われるのです。更に、「地の塵の中の眠りから目覚める多くの者」も、ある者は、「永遠の生命に至る者」であり、また、それ以外は、「恥と、限りない憎悪の的となる」のです。

時代は、ダニエルの時より、二百年程も新しくなります。新約の時代になって、パウロが、神の裁きについて語っています。ローマの信徒への手紙2:6節です、「神は、各々の行いに従って、お報いになります」と記しています。“神の裁き”は人に対する差別や偏見によらず、「相手が“誰”であっても、全く公平に、“何”を行ったか」、という点にだけ、着目されるのです。

パウロは、「神は、人を、分け隔てなさいません」と述べています。そこには、「信仰さえあれば良い。行いの有無、即ち、行いがあるか否かは、問われない」という、誤った考えはありません。「信仰義認」を、誤解してはならないのです。正しい理解は、「信仰による義は、善き業に至る」ということなのです。普通の真理として、「行いに現れない信仰というものは、存在しませんし、“信仰が結ぶ実ではない行為”もありません。」行為と信仰は、固く結ばれています。ですから、神は、「行為」によって、人を裁かれるのです。神の裁きは、律法の有無、ではなくて、“罪を犯したか否か”、で降されるのです。神の最後の裁きにおいては、律法を聞いたことが無い異邦人であっても、律法が求めるところを実行した人であれば、“義なる者”と、宣告されるのです。このようにして、ユダヤ人も、異邦人も、裁きの座においては、全く同じ立場に立つのです。

パウロは、異邦人が律法を持っていなくても、生まれ乍らの良い品性と行いとによって、律法が求めるところを実践するならば、その異邦人にとっては、「自分自身が、律法そのものになっている」と考えています。

パウロは、「こういう人々は、律法の要求する事柄が、その心に記されている事を示しています」と記しています。パウロは、確実な証拠が無くて、このような重大な事を語っているのではありません。パウロの心の中にはイスラエルの民の父祖アブラハム、イサク、ヤコブがあったのです。ユダヤ教の歴史の中には、律法が書かれていなかった時代がありました。然し彼らは、律法の精神を知っており、その業を行っていました。

同様に、パウロは異教の世界にも、“善き行いが存在する事”、聖書の世界以外の「人間に、生まれ乍らに備わっている」“善”への衝動、とも言うべきものがある事を知っていました。異邦人は、聖なる律法の書を持ってはいないけれども、“良心の存在”はあったのです。

律法の存在を知らない異邦人を、ユダヤ人たちが嘲ったとしても、やがて、異邦人たちの心の状態がどうであったか、が明らかに啓示される日が、来るのです。そして、それは、人間の奥深く、隠れたところを裁く、“裁きの日”に、明らかになるのです。

そして、その時に、あの、ダニエルの預言が、成就するのです。「ある者は、永遠の生命に入り、ある者は、永久に続く恥と、憎悪の的となる」のです。わたしたちは、御言葉を聞くことによって、“義”とされることに甘んじることなく、主の掟である、「兄弟姉妹、互いに愛し合う」教えを実践することによって、“永遠の生命”に入ることができるのです。

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