過去の説教

神の御前で安心できる

神の御前で安心できる
大坪章美

ヨハネの手紙一3章10-20節

ヨブは、東の国一番と言われる程の富豪で、かつてのソロモン王にも匹敵すると言われる程の資産家でした。「無垢で、義しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた」と記されています。このようなヨブは、ある日、突然、災難が降りかかりました。それは、ヨブの全く預かり知らないところで、惹き起こされたのです。

当時、天上の会議というものがあって、神様とみ使いたちが集まって、地上のことを定める話し合いをする、と考えられていました。ある日の会議の時に、サタンも出席していたのですが、神様が、ヨブのことをほめそやしたのです。すると、サタンは、「ヨブが、利益もないのに、神を敬うでしょうか。彼の財産に手を付けてごらんなさい。面と向かって、あなたを呪うでしょう」と、反論したのです。神様は、サタンの試みを承諾されました。それから間もなく、ヨブは全財産を失い、七人の息子と三人の娘も、大風の所為で家が倒れ、下敷きになって、死んでしまったのです。

次の天上の会議の時です、神様はサタンに言われました。「地上にヨブ程の者はいまい。お前はわたしをそそのかして、彼を破滅させようとしたが、彼は罪を犯さない」と褒めたのです。するとサタンは、「人は、命のためなら、全財産でも差し出すものです。手を延ばして、ヨブの骨と肉に触れてご覧なさい。面と向かって、あなたを呪うでしょう」と、そそのかしたのです。神様は、今度もサタンの試みに任されたのでした。

ヨブは、頭の天辺から足の裏迄、ひどい皮膚病に罹って、体中を掻き毟らずにはいられない程でした。然し、「神から幸福を頂いたのだから、不幸も頂こうではないか」と言って、罪を犯すことはありませんでした。

このような目に遭っているヨブの所へ、三人の友人達が来て、ヨブを見舞うのですが、友人達はヨブがそのような目に遭っているのは、因果応報の結果であって、「ヨブが、何らかの罪を犯した所為だ」、と言って、悔い改めを迫るのでした。エリファズも、ビルダドも、ヨブの苦難と嘆きに対して、「神の絶対の“義”と、“正しさ”」をもって、励まし語ったのです。然し、ヨブにとっては、友人達が語る、「神の、絶対の“義”」こそが、ヨブを悩ませていて、生きる事の確かさを、揺り動かしている問題なのです。ヨブは、ビルダドが、「神は、無垢で、悪を避ける者を退けない」と言っている事に対して、「それくらいの理屈は、自分にも分かっている」と言っています。神が「絶対的な義」であるなら、「自分が蒙っている苦難」は、何故なのか、という矛盾の中にあって、出口が見えずもがいているのです。

時代は新しくなりまして、紀元90年頃、ヨハネはヨハネの手紙一を著しました。ヨハネは、「福音を信じるキリスト者は、自分の弟を殺したカインのようになってはならない」と戒めています。カインの憎しみのような事は、人間の歴史の中では、絶えず繰り返されている、と言っています。ですから、「神の子たる者は、神を信じないで、神に反抗するこの世に憎まれても、そのような事で、驚いてはならない」と、言うのです。

ヨハネは言葉を続けます、15節です、「兄弟を憎む者は、皆、人殺しです。あなたがたの知っているとおり、すべて、人殺しには、永遠の命が留まっていません」と、述べています。“憎しみ”が、罪の源です。“憎しみ”は、人を殺し、“愛”は、人の為に、自らの命を捨てるのです。「言葉や口先だけではなく、行いをもって、誠実に愛し合おう」と、記しています。

敬虔なキリスト者の中でも、「自分の信仰は、神の思いを満たしているだろうか」という不安を覚える事があるものです。然し、安心して下さい。ヨハネは、断言しています、「『行い、となって現れる愛』の実践によって、『わたし達は、自分が、真理に属していることを知り、神の御前で安心できます』」と、述べています。

茲で、私達は、ヨブの気持ちがかすかに分かるのです。ヨブは、神様に窮状を訴えて、ただ、祈り願うしか無かったのです。そしてそこに、平安が生まれるのでした。ヨハネは語っています、「行いをもって、兄弟姉妹に愛を示しなさい。そうすれば、自分が、真理に属している事を知り、神の御前で、安心できるのです」。

 神の御前で安心できる
大坪章美

 
 

 

ヨハネの手紙一3章10-20節

 

ヨブは、東の国一番と言われる程の富豪で、かつてのソロモン王にも匹敵すると言われる程の資産家でした。「無垢で、義しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた」と記されています。このようなヨブは、ある日、突然、災難が降りかかりました。それは、ヨブの全く預かり知らないところで、惹き起こされたのです。

当時、天上の会議というものがあって、神様とみ使いたちが集まって、地上のことを定める話し合いをする、と考えられていました。ある日の会議の時に、サタンも出席していたのですが、神様が、ヨブのことをほめそやしたのです。すると、サタンは、「ヨブが、利益もないのに、神を敬うでしょうか。彼の財産に手を付けてごらんなさい。面と向かって、あなたを呪うでしょう」と、反論したのです。神様は、サタンの試みを承諾されました。それから間もなく、ヨブは全財産を失い、七人の息子と三人の娘も、大風の所為で家が倒れ、下敷きになって、死んでしまったのです。

次の天上の会議の時です、神様はサタンに言われました。「地上にヨブ程の者はいまい。お前はわたしをそそのかして、彼を破滅させようとしたが、彼は罪を犯さない」と褒めたのです。するとサタンは、「人は、命のためなら、全財産でも差し出すものです。手を延ばして、ヨブの骨と肉に触れてご覧なさい。面と向かって、あなたを呪うでしょう」と、そそのかしたのです。神様は、今度もサタンの試みに任されたのでした。

ヨブは、頭の天辺から足の裏迄、ひどい皮膚病に罹って、体中を掻き毟らずにはいられない程でした。然し、「神から幸福を頂いたのだから、不幸も頂こうではないか」と言って、罪を犯すことはありませんでした。

このような目に遭っているヨブの所へ、三人の友人達が来て、ヨブを見舞うのですが、友人達はヨブがそのような目に遭っているのは、因果応報の結果であって、「ヨブが、何らかの罪を犯した所為だ」、と言って、悔い改めを迫るのでした。エリファズも、ビルダドも、ヨブの苦難と嘆きに対して、「神の絶対の“義”と、“正しさ”」をもって、励まし語ったのです。然し、ヨブにとっては、友人達が語る、「神の、絶対の“義”」こそが、ヨブを悩ませていて、生きる事の確かさを、揺り動かしている問題なのです。ヨブは、ビルダドが、「神は、無垢で、悪を避ける者を退けない」と言っている事に対して、「それくらいの理屈は、自分にも分かっている」と言っています。神が「絶対的な義」であるなら、「自分が蒙っている苦難」は、何故なのか、という矛盾の中にあって、出口が見えずもがいているのです。

時代は新しくなりまして、紀元90年頃、ヨハネはヨハネの手紙一を著しました。ヨハネは、「福音を信じるキリスト者は、自分の弟を殺したカインのようになってはならない」と戒めています。カインの憎しみのような事は、人間の歴史の中では、絶えず繰り返されている、と言っています。ですから、「神の子たる者は、神を信じないで、神に反抗するこの世に憎まれても、そのような事で、驚いてはならない」と、言うのです。

ヨハネは言葉を続けます、15節です、「兄弟を憎む者は、皆、人殺しです。あなたがたの知っているとおり、すべて、人殺しには、永遠の命が留まっていません」と、述べています。“憎しみ”が、罪の源です。“憎しみ”は、人を殺し、“愛”は、人の為に、自らの命を捨てるのです。「言葉や口先だけではなく、行いをもって、誠実に愛し合おう」と、記しています。

敬虔なキリスト者の中でも、「自分の信仰は、神の思いを満たしているだろうか」という不安を覚える事があるものです。然し、安心して下さい。ヨハネは、断言しています、「『行い、となって現れる愛』の実践によって、『わたし達は、自分が、真理に属していることを知り、神の御前で安心できます』」と、述べています。

茲で、私達は、ヨブの気持ちがかすかに分かるのです。ヨブは、神様に窮状を訴えて、ただ、祈り願うしか無かったのです。そしてそこに、平安が生まれるのでした。ヨハネは語っています、「行いをもって、兄弟姉妹に愛を示しなさい。そうすれば、自分が、真理に属している事を知り、神の御前で、安心できるのです」。

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