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乾いている者はだれでも

乾いている者はだれでも
大坪章美

ヨハネの黙示録 22 章 8-17節

紀元前550年の頃は、南王国ユダの多くの民が、バビロンで、捕らわれ人の生活をしていました。しかし、その頃、現在のイランに位置するところに、ペルシャという国が興って、国王キュロス二世が、バビロニアへの攻撃を仕掛けていたのです。そして、第二イザヤの口を通して語る、神の言葉は、この、異邦人であるペルシャの王、キュロス二世を奮い立たせたのは、「ほかならぬ、この、わたしだ」と仰るのです。

イザヤ書41章13節には、「わたしは主、あなたの神、あなたの右の手を固く取って言う。恐れるな、わたしはあなたを助ける、と」と、記されています。わたしたちは、人生において、体も心も、疲れ切ってしまい、心が萎えてしまいそうになる時を経験します。しかし、主なる神様が選んで下さり、洗礼を受けるまで導いて下さったわたしたちに対して、いつも変わらない愛を示してくださっていて、どのような時にも、力と導きを与えるために、手を差し伸べて下さっているのです。山のように大きな存在であったペルシャのキュロス王が、イスラエルの民を、バビロン捕囚やほかの国々から解放して、祖国ユダへ帰れるようにしたのです。この、不思議なことを起こされたのは、主なる神、ご自身だ、と仰っているのです。

旅の途中の水不足、飢えや渇きは、大変なものであったことでしょう。父なる神様は、このような、“飢え・渇き”を癒してくれる神が、ほかに居るだろうか、と言われています。「不毛の高原に」、「谷あいの野に」、「荒れ野に」、「渇いた地に」、水をもたらそう、と言われました。そして、これによって、バビロンの捕囚の民が、砂漠を迂回して、長い長い距離をエルサレムまで旅して帰る、帰還の喜びを、保証されているのです。

この、第二イザヤの時より六百年も後の、ところはエーゲ海に浮かぶ島で、パトモス島と呼ばれている島があります。ここで、ゼベダイの子ヨハネが、島流しの刑に服していた時に、神様からの啓示と幻を与えられて、ヨハネの黙示録を著しました。

天使は、イエス様の言葉を語ります、「見よ、わたしはすぐに来る。わたしは報いを携えてきて、それぞれの行いに応じて報いる」と、言われています。“再臨”の時に、「報いを携えて、来る」と仰るのです。“報い”を携えて来られて、わたしたち人間のそれぞれの行いに応じて、報いて下さる、と言われています。

17節で語られる言葉は、少々分かりづらい所ですが、「“霊”と花嫁が言う。『来てください』」と記されています。“霊”とは、「預言者達の中に働いて、人々を主なる神様に招く霊」のことです。“花嫁”とは、「キリストの花嫁である、救われた教会」の事を指しています。この、「預言者達の中に働く霊」と、「救われた教会」とが、未信者の人々に対して、「来て下さい」と、招いているのです。「誰でも良いから、キリストの許においで下さい」と、招いています。そして、更に、「この招きに聞き従う人々も、そのまま、他の人々に、『どんな人でも、キリストの許に来なさい』と、伝えなさい」と呼びかけているのです。キリストに招かれた者は、他の人々を、キリストに導かなければならないのです。更に、招きの言葉は続きます。「渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい」と言われました。「罪ある者も、悔い改めにためらいを覚える者も、渇いている者は誰でも来なさい」と言われています。「誰であれ、命の水が欲しい者は、ここにきて、ただで、飲みなさい」と招いておられます。

先に、わたしたちは、イザヤの預言に聞きました。イザヤ書41:17節です。「苦しむ人、貧しい人は、水を求めても得ず、渇きに、舌は干上がる。主であるわたしが、彼らに答えよう。イスラエルの神であるわたしは、彼らを見捨てない」と、神様は言われました。直接的には、バビロンから解放された捕囚の民を力づけ、励ます言葉でした。それが、今、イエス・キリストの言葉によって、実現しているのです。「だれであっても、命の水が欲しい者は、ただで、飲むがよい」。資格や条件はありません。「渇いている者」はだれでも、受け入れられるのです。

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