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神の愛によって

受難節第3主日礼拝

説  教 「神の愛によって」  岸 敬雄牧師 

               聖   書  詩編18篇2~7節  エフェソの信徒への手紙2章1~13節             

 詩編18篇は、主がダビデをすべての敵の手、また、サウルの手から救い出されたとき、彼はこの歌の言葉を主に述べたとされています。2節を原語の動詞の校訂を考慮した形で翻訳し直すと、「わたしはあなたを高らかにほめたたえる。私の力よ」となり、むしろこちらの翻訳の方が、分かり易いのではないでしょうか。

 主なる神をほめたたえながら、主こそ自分の力であるといっているのです。その後さらに「死の縄がからみつき 奈落の激流がわたしをおののかせ 陰府の縄がめぐり 死の網が仕掛けられている」と過去の罪に縛られている状況のことを歌い、そして、その罪の中にある苦難の中から自分の本当に主である神に対して呼び求め、主による救いを呼び求めているのです。そして、この叫びは、必ずや御前に至って御耳に届くと信じて語っているのです。

 その様な主への信頼、そして救いへの懇願が歌いあげられているのです。その基本となっているものは何でしょうか。そこには主が私たちを愛してくださっていると言う信頼、救って下さると言う確かな確信があるのではないでしょうか。

 エフェソの信徒への手紙2章において、さらに具体的に主の愛が言われています。私たちは以前は過ちと罪によって死んでいたと言うのです。死んでいたと言ってもこの手紙を読んでいる人々は肉体的には、現実的には生きているのは確かです。

 それなのに死んでいたと言われるのはどうしてなのでしょうか。それは過ちと罪のため神様から切り離されてしまっており、救われる目途が立たない状態にあることを死んだ状態にあるのだと言っているのです。なぜそのような状態にあったのかと言う理由として、「この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んで」いたからだと言うのです。

 この世を支配しているものは神に逆らうものであり、この空中に勢力を持っているものだと言うのであり、決してこの世の支配者を王やローマ帝国の様な支配階級のような眼に見える物に限定することなく、真実様に反対する霊的な勢力をも含めたあらゆる勢力であると見ているのであり、不従順な者たちの内に今も働く霊もそのものも含んだものに従っていたのが原因であったと言っているのです。

 このことは私たちの現在の生活に置き換えてみても、現在進行形でこの不従順な者たちの内に今も働く霊は働いていることは確かなのではないでしょうか。そして、私たちも肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように生まれながら神の怒りを受けるべき者だったと言っているのです。本来この世において生きている人々、もっと言えば死んでいる人々は、神の怒りを受けるものなのだと言われているのです。

 

 私たちは自分たちを吟味するためには次に言われている様に、肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していないかと言うことを吟味しなければ成らないでありましょう。そんなわたしたちを神の恵みにより、罪のために死んでいた私たちを、キリストと共に生かしてくださったのです。それは、 キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださったのだと言っているのです。

 「神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです」と言っているのです。来るべき世とは、不従順な者たちの内に今の世ではなく、神の恵みにより生かされる世界においてはキリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみによって、恵みにより、信仰によって私たちは、自らの力によるのではなく、神の賜物によって救われたのだといっているのです。

 だからこそ自分の力によるのではないのではないのだから、誇る事が無い為だと言っているのです。「なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。」そして、元異邦人であって、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていた人々へ、警告が当たられるのです。以前は神様より遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったと言われているのです。

 

 

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