過去の説教

おくびょうな霊ではなく

受難節第4主日礼拝  

説 教「おくびょうな霊ではなく」岸 敬雄牧師

聖 書 イザヤ書48章1~8節  テモテへの手紙二 1章7~14節

 テモテへの手紙二の作者であるパウロは、わが子のように思っているテモテに対して、「神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです」と言ったのです。裏を返すとテモテが現在おくびょうの霊に取りつかれているのではないかと心配になってしまう言い方です。しかし、神は力と愛と思慮分別の霊を、テモテに与え、そればかりか、パウロにも神様から与えられた共通の恵みであると言っているのです。

 そして、パウロは、神の召しについて、パウロは自分が一番輝かしい役割であると感じているであろう、主を証しすることと、主のために囚人となっている現在、囚人として囚われの身であることを並列に並べて、どちらも恥とはしないと言っているのです。

 そして、囚人である境遇を「神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください」と共に苦しみを分かち合ってくれることを望むのです。

 パウロはテモテを福音宣教者の同胞として共に苦しみをも分かち合える存在であると考えているのです。私たちも教会員として、教会に於て神様に繋がっているものとして苦しみも喜びも、共に分かち合っていく共同体なのです。

 そしてパウロは、「神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださった」と言うのであり、わたしたちの行いによるのではなく、救いの主体は神にあることを言い表し、さらに、神の御計画と恵みによるものなのだと言い切るのです。

 私たちも神様に呼び集められて教会へと集っているのであり、私たちの救いの恵みの主体も神にあることは確かな事実です。

 そして、パウロの言っている恵みは、現在計画されたものでは無く、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられていたと言うのです。

 この部分は前世から定められていた様な思い、言ってみればすでに結果が決まっていたような運命論的に感じる方もおられるかもしれませんが、あくまでも神の恵みが与えられることが永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられていたのであり、その恵みに答えられるかどうかは、私たち自身にかかっているのは確かであり、運命論の様に恵みは強制されるものでは無いのです。

 話しを本文に戻しますが、「 今や、わたしたちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされたものです」と永遠の昔から与えられていた神の恵みが、キリスト・イエスの出現によって明らかになったのだと言っているのです。

 神の恵みがどの様にして現われたのかと言えば、キリストが死を滅ぼして下さり、福音を通して不滅の命を現してくださったのだと言っているのです。

 イエス・キリストによってあらわされた神の恵み、永遠の命の恵みと言う福音のためにパウロは、宣教者、使徒、教師に任命されたのだと言っているのです。

 そして、福音のため、その福音のために任命された宣教者、使徒、教師として、パウロはこのように苦しみ、すなわち囚人としての苦しみを受けているけれども、それを恥じとはしないと、言っているのです。

 なぜ恥としないと言っているのかと言えば、「わたしは自分が信頼している方を知っており、わたしにゆだねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです」と言い切るのです。

 そして、テモテに対しての忠告として、「 キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい」というのであり、健全な言葉とはまさに、パウロ自身が語ってきた福音のことであり、もっと言えば神に根差したパウロの行い自身のことを指しているのではないのでしょうか。

 そして、 あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい」と再び自分とテモテを同じ立場に於て、ともに与えられた自分の中においでくださる聖霊なる神によって守るようにと命じるのです。

 全てのものの中で一番確かな父・子・聖霊なる三位一体の神であられ、その中でも私たちの中におられ、私たちの一番身近にいてくださる、神であられる聖霊なる神によって守るようにと命じているのです。

アーカイブ