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救いの創造者

受難節第2主日礼拝

説 教 「救いの創造者」         岸 敬雄

             聖 書 エレミヤ書31章27~34節 ヘブライ人への手紙2章5~16節

 エレミヤ書31章27~34節において主がイスラエルの家とユダの家に、人の種と動物の種を蒔く日が来ると言っています。動物や人の種をまくことによってどのような事が起こると言うのでしょうか。それは、人も動物もこれから増え始めることを意味していることに違いありません。

 北イスラエルはもはや滅ぼされており、南ユダもバビロン捕囚で国を失うような状態になります。それなのに共に、すなわち全てのイスラエルの民に対して、そこに人と動物の種をまく日が来る。種をまいて人と動物を増し加えさせる時が来ると言っているのです。

 そして、さらに以前と今後の違いについて語られています。「かつて、彼らを抜き、壊し、破壊し、滅ぼし、災いをもたらそうと見張っていた」のだと言いつつ、「今、わたしは彼らを建て、また植えようと見張っている」と主は言われるのだと言うのです。今再建について見守っていてくださるのだと言われているのです。そして「先祖が酸いぶどうを食べれば子孫の歯が浮く」と人々はもはや言わないというのです。

 「先祖が酸いぶどうを食べれば子孫の歯が浮く」と言うたとえは、先祖の罪の影響を子孫が受けると言うことを言っているのであり、その後に言われている様に「人は自分の罪のゆえに死ぬ。だれでも酸いぶどうを食べれば、自分の歯が浮く」と言って、自分の罪のために自分が死ぬのであって、先祖のために死ぬようなことはないのだと言っているのです。

 そして、「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる」と言われているのです。この言葉は、もしかするとエレミヤ書の中で一番有名な言葉なのかもしれません。

 ここで言われている新しい契約こそが新約聖書で言われている新約だと取る人々もいるのです。この個所で約束された新しい契約は、主イエス・キリストのご生涯と苦難によって成就したものとみなされているのです。イエス様は最後の晩餐の時に十字架上に事故を捧げる時に、新しい契約が直ちに始まると濃くされているのです。(マルコ14・23~25節参照)

 新しい契約について考える前に、古い契約のことを考えなければなりません。古い契約とはシナイにおいて行われた契約のことであり、その時には十戒を初めとした律法が与えられましたが、今度の新しい律法は、古い律法の従うことに失敗した民に対して、神様ご自身が恵みをもちいて、民の内側にある本性の必要な変化を起こさせ、その結果として、民が過去において神様に服従するのに失敗したことに変えて神様の律法に服従しようとする意志とその能力の両方が与えられるようになると告げているのです。

 そして、「人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである」と言われるのであり、神様は「彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」といってくださっているのです。

 ヘブライ人への手紙2章の先週の部分の続きですが、来るべき世界について語られています。ある個所で、次のようにはっきり証しされていると言っています。どこで語られているかと言うと、詩編8篇5~7節で語られているのであり、「あなたは彼を天使たちよりもわずかの間、低い者とされたが、栄光と栄誉の冠を授け、すべてのものを、その足の下に従わせられました。」と言うのであり、「天使たちよりもわずかの間、低い者とされた」とは、神の身分である御子イエス・キリストが人として肉を取って、この地上に来られたことを示しているのです。

 人は天使より神様から見れば遠い存在になっていると考えていたのです。しかしイエス様は「すべてのものを彼に従わせられた」と言うのであり、本来の栄光を取り戻されて、全ての者の上にイエス様が最終的にはお立ちになることを示しているのです。

 しかし、「すべてのものを彼に従わせられた」と言われている以上、この方に従わないものは何も残っていないはずです。しかし、わたしたちはいまだに、すべてのものがこの方に従っている様子を見ていません。確かに聖書で言われている通り現代の私たちも、主イエス・キリストがこの地上をすべて御支配されている様子を実現として、見ていない事も認めるのではないでしょうか。

 そのことは、確かに私たち自身も実感しているでしょう。しかし、全てが実現していないからと言って、聖書の言葉は確かび実現に向けて進んでいるのです。

 それは『「天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた」イエス様が、『死の苦しみのゆえに、「栄光と栄誉の冠を授けられた」のを見ています。』と言っている様に、イエス様の十字架の苦しみを見ることによって、それと同時にイエス様の栄光を私たちは見ているのです。もしそうでなければ、残酷な処刑の道具である十字架を仰ぎ見続けることはおかしなこととなってしまいます。

 十字架の上で血潮を流されてまで私たちを愛してくださったイエス様の愛が十字架に輝いているのであり、私たちの救いが十字架に現われているのです。だからこそ私たちは主イエス・キリストの十字架を仰ぎ見ながら歩んでいくのです。

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