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大いなる救い

受難節第1主日礼拝  

説 教「大いなる救い」岸 敬雄牧師

                 聖 書 詩編125編1~5節  ヘブライ人への手紙2章1~4節

 都に上るとは、一般的にエルサレムにユダヤ教の三大祝祭に向けて巡礼の旅をしている時か、あるいは祭りの間の行進において、巡礼者たちが用いるために集められた詩だと言われています。動きながら歌われた歌と考えられています。

 この詩編125編もも居や子に上る歌の一つとなりますが、エルサレムは単に地名として出て来ているのではなく、信仰者に関わって下さる主が御心を示してくださるシンボル的な地となっています。

 主を信じる人はエルサレムがある山、すなわちシオンの山の様にとこしえに揺らぐ事が無く座るというのです。何がゆらぐ事が無いかと言えば、それは主に対する信仰であり、信頼でありましょう。

 そして、主を信頼している人々を、主が見守っていてくださる様子を、エルサレムを囲んでいる山々に例えて歌い上げているのです。そして、その主の守りが、山々が以前から現在まで、そして将来まで変わらない様に、変わらないと言っているのです。

 主によって守られていて、主に従う人に割り当てられている地には、「主に逆らう者の笏が置かれることのないように。主に従う人が悪に手を伸ばすことのないように」と願うのです。この部分に現実が垣間見えるのではないでしょうか。

 主に対して、正しい人に対しても時として悪の支配が及んでいた。その様なことが、主の都であるエスサレムとそこに連なる主の民に起きないようにと願っているのです。だからこそ、「主よ、良い人、心のまっすぐな人を幸せにしてください」と願っているのです。現在決して成就されているわけではないからこそ、主に願っているのです。しかし、この願いは決して根拠がないものでは無く、主に対する確かな信仰と信頼の上に立って願われているのです。

 そして、主に対してよい人に対してよこしまな自分の道にそれて行く者を悪を行う者と共に追い払ってくださいと願うのです。私たちの中にも悪が居ることを、時として人をつまずかせたり、道にそれさせる様の者がいることをしっかりと理解していたのです。その上でイスラエルの上に平和がある様にと願うのです。

 決して厳しい現実を理解せずに現実逃避しているわけではありません。自分たちの現実をはっきりと理解したうえで、さらに大いなる救いを信じて、強く主への信仰と信頼を歌いあげているのです。

 ヘブライ人への手紙の2章では、はじめから警鐘が鳴らされています。わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わなければ成らないと言っているのです。わたしたちが聞いたこととは何でしょうか。

それは、ヘブライ人への手紙の1章で御子イエス・キリストについて「この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。」と言っている様に、私たちは御子主イエス・キリストについて一層注意を払わなければ成らないのです。

 そうでないと押し流されてしまうのです。何に押し流されるのでしょうか、それは、道をそれて行く人の思いになのではないでしょうか。時として人としての思いであったり、自分の知識であったり、主張かも知れません。それは決して悪い者に限ったことではありません。本来は正論あっても、正確な知識であろうとも、それを用いる場所と機会によっては人を押し流し、主から離れさせてしまう事となりえるのです。

 そして聖書に言われている、「天使たちを通して語られた言葉が効力を発し」とは、天使の御告げは確かに効力を発しています。神殿内で洗礼者ヨハネの父となるザカリアに対する天使の御告げ、マリアのもとに訪れた天使ガブリエルの御告げなどが効力があったのは確かです。それと同様にすべての違犯や不従順が当然な罰を受けたのは、出エジプトなどイスラエルの歴史を見れば多くの例を見出すことが出来ます。

 主の思いを伝える天使たちを通して語られた言葉が効力を発しするなら、と効力を発していることを示すのに疑問形で問いかけながら、「これほど大きな救いに対してむとんちゃくでいて、どうして罰を逃れることができましょう」というのであり、大きな救いにむとんちゃくでいることは罰を逃れることはできないのだと言っているのです。大きな救いとは、まさに主イエス・キリストの十字架による罪の贖いであり、その後の主イエス・キリストの復活により、私たちにもたらされた復活の希望なのです。。

 その大きな救いに対して神様も、私たちに対して、しるし、不思議な業、さまざまな奇跡、聖霊の賜物を御心に従って分け与えて、証ししてくださっていると言うのです。私たちは神様から与えられた証しをしっかりと保って歩み続け行かなければ成らないのです。

 

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