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祈りなさい・歌いなさい

降誕節第9主日礼拝 

説 教「神祈りなさい・歌いなさい」岸 敬雄牧師

              聖 書 列王記下4章18~37節  ヤコブ書5章13~16節

 今週で降誕節は最後となり、次週から受難節に入ります。受難節に入る前の名物の一つと言えばカーニバルではないでしょうか。カーニバルの日本語で言えば謝肉祭と言う事に成ります。厳粛な生活を送り、肉食などを控えるようになる前に残りの肉などを食べつくしてしまう祭りがカーニバルの始まりだったと言われています。

 しかし、カーニバル以前にも音楽を鳴らし踊りまくる姿は、聖書にも出てきます。例えば出エジプト記の15章20節以下に書かれている様に、モーセたちがエジプトの軍隊に負われていた時、紅海をわって無事にわたり切り、その後アロンの姉、すなわちモーセの姉でもある女預言者であるミリアムは小太鼓を手に取って音頭を取りながらほかの女たちと共に踊りながら歌った記述があります。

 サムエル記下6章では、ダビデ王はエルサレムに契約の箱をと迎え入れる時、竪琴、琴、太鼓、鈴、シンバルなど多くの楽器を奏でさせると共に、その前で踊りながら行進したのでした。どちらも神に対する歓喜の思いを体全体で表していると言えましょう。

 本日の旧約聖書の中においては、神の人と呼ばれているエリシャは自分が大変お世話になっていた婦人の息子を蘇生させている姿が描かれています。

 エリシャは、はじめに自分が大変お世話になった夫人に対して何かしたいと思い子供が無いこと気に掛けていたことを聞き、しかし、夫も年老いていると言い、あきらめて居る様子であったので、来年に今頃男の子が出来ると予言して言ったのです。彼女もとても信じられなかったにもかかわらず、実際に子供が生まれ、そしてその男の子は無事成長して大きくなったのです。しかし、ある日草刈りに行った時に突然頭が、頭が、と言って倒れて死んでしまったのです。

 すると、婦人は子どもを神の人の寝台に寝かせて、すぐにろばに乗り従者一人を連れて神の人のもとへと訪れたのです。そして、「わたしがあなたに子供を求めたことがありましょうか。わたしを欺かないでくださいと申し上げたではありませんか」と言ったのです。この婦人は自分から子供を求めたのでもないのに、エリシャが予言して子どもが出来たにもかかわらず、死んでしまい、無いものとされたとしたら、これはエリシャに欺かれた事に成るのではないかと訴えたのでした。この婦人の訴えに対してエリシャは自分の付き人であるゲハジに命じて、先に行かせたのです。

 そして、ゲハジはエリシャから命じられた通りに行ったにもかかわらず、何も変わりはなかったのでした。「エリシャが家に着いてみると、彼の寝台に子供は死んで横たわっていた」のでした。

 そこでエリシャは中に入って戸を閉じ、こどもと二人だけになって主に祈ったのでした。 そしてエリシャは寝台に上がって、子供の上に伏し、自分の口を子供の口に、目を子供の目に、手を子供の手に重ねてかがみ込んだのです。すると、子供の体は暖かくなったのでした。しかし、それでも子どもは完全の組成はしませんでした。するとエリシャは起き上がり、家の中をあちこち歩き回ってから、再び寝台に上がって子供の上にかがみ込むだのでした。すると今度は、子供は七回くしゃみをして目を開いたのでした。初めには、体が体温を取り戻し、そして次にくしゃみをする事によって、完全に呼吸することが回復したことが示されています。

 その後『エリシャはゲハジを呼び、「あのシュネムの婦人を呼びなさい」と言った。ゲハジに呼ばれて彼女がエリシャのもとに来ると、エリシャは、「あなたの子を受け取りなさい」と言った』のでした。彼女は近づいてエリシャの足もとに身をかがめ、地にひれ伏し、自分の子供を受け取って出て行ったのでした。

 エリシャが祈りの時に、全身を使っていたことが分かります。祈りの形は黙想のような静かなものだけではないことが分かります。喜びにあふれる時には歌い踊る思いで祈ることは適しているのではないでしょうか。

 さらに、祈る時に必要なことについて、本日のヤコブの手紙で言われている様に、何時も祈ることであり、苦しい時も祈り、喜んでいる時も祈り、そして讃美を歌うべきなのです。もちろん讃美を歌う時は喜んでいる時に限らず、苦しんでいる時でも讃美する事によって力を与えられることはあるでしょう。たとえ声に出せないうめきのような讃美でも良いのです。神は私たちが祈る前から私たちのことを知っていてくださるのですから。

 それと共に人のために祈ることも大切なのです。「あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。 信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます」と言っている通りです。さらに「だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします」と言われているのです。主に癒していただくためには、互いに罪の告白をすることが必要であり、互いのために祈り合うことが必要なのです。その祈りに効果があるのです。なぜならば、正しい人の祈りには大きな力があると言われている通りなのですから。

 

 

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