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神秘としての知恵

降誕節第8主日礼拝  

説 教「神秘としての知恵」  岸 敬雄牧師

           聖 書 箴言2章1~9節 コリントの信徒への手紙一2章6~10節

 箴言では多くの諭しが書かれていますが、本日の諭しは父が子に対しての諭としとして書かれている最初のものとなります。自分の子どもに対して父親が諭を与える言葉になります。

 色々な条件、「わたしの言葉を受け入れ、戒めを大切にして 知恵に耳を傾け、英知に心を向けるなら、分別に呼びかけ、英知に向かって声をあげるなら、 銀を求めるようにそれを尋ね宝物を求めるようにそれを捜すなら」それによって、主を畏れることを悟り、神を知ることに到達するであろうと言っているのです。

 初めに父である自分の言葉を受け入れるようにと言い、その後に色々な条件を述べた後に、結果として主を畏れることを悟り、神を知ることに到達するであろうと言っているのです。言い換えるならば、主を畏れることを悟り、神を知ることに到達する方法について言っているのであり、その後に主がどの様な事をしてくださるかを述べているのです。

 それは、「知恵を授けるのは主であり、主の口は知識と英知を与える。主は正しい人のために力を完全な道を歩く人のために盾を備えて、 裁きの道を守り主の慈しみに生きる人の道を見守ってくださる。

 また、あなたは悟るであろう、正義と裁きと公平はすべて幸いに導くと言っていますが、主がどの様な知恵や知識や英知を与えてくださるか具体的には書かれていません。

それは神秘としての知恵、とでも言っていいような秘められた知恵のようでありました。しかし、主イエス・キリストがこの地上に私たちと同様に肉を取っておいで下された結果として、新約聖書において「完全な道を歩く人のために盾を備えて、 裁きの道を守り主の慈しみに生きる」道が具体的に示されたのです。

 それは、コリントの信徒への手紙一2章において、本日の聖書箇所の前で、コリントの教会の兄弟たちに対してパウロは、そちらに行った時「神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした」と言っているのであり、さらに、「なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです」と言っているのです。神の秘められた計画とは、まさに主イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリストのことであるのが分かります。

 パウロの言葉も、わたしの宣教も知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものだったと言うのです。優れた言葉や知恵を用いないで、“霊”と力の証明による宣教であり。ここの力とは暴力的な力ではなく主に寄り頼み人に与えられる主の力であることは明らかです。

 人の知恵によるものでは無く“霊”すなわち聖霊の力と証明によるものだったと言っているのであり、自分の力による宣教ではなく神の力による宣教を行ったのだと言っているのです。「あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした」と言っている通りです。

 これは、パウロが初めにコリントの人々に初めに語り掛ける時の状況でした。しかし、本日読んでいただいた聖書の箇所において、「しかし、わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります。それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません」と言うのであり、どの様な知恵で語るかと言えばそれは、「隠されていた神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられた」ものだと言っているのです。

 そして、「この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう」と言うのであり、それは前にも書いたように言った様に神の秘められた計画、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリストに対する知恵だったからです。

 イエス・キリストによる私たちの罪の贖いによる救いの計画こそが隠されていたか隠されていた神秘としての神の知恵なのです。だからこそ人に知恵では理解することができない、だからこそ、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めさせてくださるのです。

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