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たとえを用いるのは

降誕節第7主日礼拝 2月5日 

説 教「たとえを用いるのは」  岸 敬雄牧師

               聖 書 サムエル記下12章1~13節 マルコによる福音書4章21~34節

 本日の旧約聖書の箇所は、ダビデ王はウリヤの妻のことで主の預言者であるナタンから叱責を受けている場面です。ダビデ王がウリヤの妻が自宅の屋上で水浴びしているところをみそめて、横取りしようとして、ウリヤを敵との戦争の最前線に送りだし、わざと戦死させウリヤの妻を奪い取ったのでした。ことに対して、主の預言者であるナタンがたとえを用いてダビデ王に自分の罪を自覚させて、その罪の代価を選ばせた場面です。

 たとえとしては、豊かで非常に多くの羊や牛を持っていた男が、 貧しい自分で買った一匹の雌の小羊のほかに何一つ持っていない男から、その羊を息子たちと一緒にいて彼の皿から食べ、彼の椀から飲み、彼のふところで眠り、彼にとっては娘のようだったのにもかかわらず、 ある日、一人の客があったからと、旅人をもてなすのに自分の羊や牛を惜しみ豊かで非常に多くの羊や牛を持っていた男は、貧しい男の小羊を取り上げて自分の客に振る舞った。という話しをしたのでした。

  ダビデ王は、その羊を取り上げた男に激怒し、「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ」といったのです。ここで、ダビデ王自身は自分自身に死刑を宣告したことになります。この羊を取り上げた男はあなたのことだと言って預言者であるナタンは, ウリヤの妻を奪い取ったことに対して、その罪をはっきり自覚させたのです。

 この場面においても、事実をはっきり自覚させるためには、たとえを用いて説明することは有効の手段であることが示されています。

 新約聖書の中にも多くのたとえが出てきます。特に福音書の中でイエス様は多くのたとえを持って語られておられます。私たちも、時として何かを伝えようとする時に譬え話を使用する時があると思いますが、たとえ話は、その伝えようとする内容をやさしく伝えることが出来ると共に、伝えたい内容を表現するのに限界がある事を実感された方もおられるのではないでしょうか。

 イエス様は、どうしてたとえを用いて語られるのかについてマルコによる福音書では、本日の33節で「人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。」と言われています。続いて「たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された」と言われているのです。

 聖書の中で幾つかの部面に於て、イエス様は弟子たちにたとえの解き明かしをされていますが、全てのたとえの解き明かしは乗せられていません。まるで、私たち自身で解釈をすることを求められている気すらします。

本日のマルコによる福音書にでてくる3つのたとえには、それぞれ特徴があります。2~25節にある「ともし火」と「秤」のたとえについては、ルカによる福音書にも同様のたとえ話が見られます。そして26~33節にある「からし種」のたとえは、マタイによる福音書にもルカによる福音書似も同様の話を見ることが出来ます。

 しかし、この二つのたとえに挟まれている26~29節にある「成長する種」のたとえは、マルコによる福音書にのみ記載されているたとえになります。

 イエス様は、「人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された」と書かれていますが、このたとえに対しての解き明かしは、マルコによる福音書には書かれておりませんので、どの様に理解するかについては、この御言葉を聞く人のそれぞれの聞く力に任されているのかもしれませんが、ひとつずつ簡単に見て行き問いと思います。

「ともし火」と「秤」のたとえはセットとして語られています。それを反対の順番で聞いてみてはどうでしょうか。沢山与えられている者は沢山求められ、そしてもし与えられたものを用いないのならば与えられているものまで取り上げられる、だからこそともし火のたとえで言われている様に、適切な場所で適切に使用しなければいけないと言っているのです。

 それと共に神の国に対してのたとえが続いていくのです。初めに「成長する種」のたとえは、マルコによる福音書にのみ載っているたとえです。神の国とはたとえ人が種をまいたとしても、その種をまいた人が寝たり起きたりするように別のことをしていたとしても、種が植えられた土の働きにより、神様が定められた順番に従って成長して行き、そして実をならせる。

 そうするとまず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実がなるまでの経過をすべて理解していなくても、実った時には、しっかりとかぎ入れるのです。天の国は、私たちがすべてを理解していなくとも神様はその実をしっかり私たちにお示し下さり、私たちはその実りにしっかりと預かることが出来るのです。

それに続く、からしだねのたとえは、からし種のように、土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さい種が、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る、と言っているのです。小さい種から大きな木となる、それと同様に私たちの行いが種ほどの小さな物であろうとも、鳥がとまれるほどの大きな木のように大きな恵みへと神様が育ててくださるのです。

 

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