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霊の住まい

降誕節第6主日礼拝

説  教 「霊の住まい」 岸 敬雄牧師

            聖書 詩編29章1~3節 コリントの信徒への手紙一6章12~20節 

 本日のコリントの信徒への手紙一6章12~20節では、手紙の受け取りであるコリントの信徒とパウロとのやり取りから始められています。

 コリントの人々は「わたしには、すべてのことが許されている」というのに対してパウロは「すべてのことが益になるわけではない」というのです。コリントの人々が何についてすべて許されていると言っているのかと言えば、あらゆる拘束から解放されていると言う者であり、だからこそ、この後に出てくる論議からわかってきますが、男女関係に関する不品行を行ったとしても自由だと言っているのです。

 それに対して、パウロは「すべてのことが益になるわけではない」と言うのであり、男女の関係は神により許された夫婦としての関係であれば益となるとしても、それ以外の不品行な行為は益となることではないと言っているのです。

 再びコリントの人々は「わたしには、すべてのことが許されている」というのに対してパウロは「わたしには、何事にも支配されはしない」と言うのです。

 キリスト者は何事にも支配されはしない何事にも支配されはしない、自由であることをパウロは否定するわけではないと言うのです。しかしそれは、キリストのために働くもとに対してであり、みだらな行いを行う者は自由なのではなく、不品行に対する奴隷状態になっているのだと言っているのです。

 さらにコリントの人々が「食物は腹のため、腹は食物のため」と言うのに対してパウロは「体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです」と言うのです。

 コリントの人々が「食物は腹のため、腹は食物のため」と言うのは、一つのスローガンのようなものであり、さらに「神はそのいずれをも滅ぼされます」と言うのは、コリントに於して知者と思われていた人々は、肉体を一時的な劣ったものであると考えていたのです。そして神は、その肉のみを滅ぼされるのだと言っているのであり、だから肉を軽んじて、腹がへれば食べ性的な満足を求めれば、それを求めればよい。その様な肉に関わることは大したことではないのだと考えていたのです。

 それに対してパウロは「体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです。 神は、主を復活させ、また、その力によってわたしたちをも復活させてくださいます」と言うのです。

 パウロは何もかも自由に行うことを認めるわけではなく、体をみだらな事を行うために使うことを否定して、キリストとの交わりは、主イエス・キリストが、復活させられたことにより、その力によって、霊のみでなく、人間全体の交わりだと言っているのであり、私たちの体は主イエス・キリストに属するのであり、キリストと一体なのだから、「あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」と言っているのであり、私たちの肉体的な体もキリストのものであり、私たちの所有物ではないのだと言っているのです。

 だからこそ、主に結ばれて復活に定められている体を遊女などと、みだらな行いに使ってはいけないと言っているのです。「みだらな行いを避けなさい」とはっきり言っているのです。

  私たちにとって考えてみれば、わたしたち教会員はキリストのからだである教会の一部であり、キリストの体の一部となっているのです。

 さらにパウロは、「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」と、あなたがたの体がもはや自分自身のものではない事を説明し、体が神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿なのだと言うのです。

 私たちの体も、もちろんパウロが言っている様に、神からいただいた、聖霊が宿ってくださる神殿であることは間違いありません。時代が変わり時間が経っているとしても、変わる事がない事実であります。

 私たちの中にもパウロが手紙を書いて送っていた当時にキリスト者同様に聖霊が与えられているのです。私たちもこの神の神殿を適切に扱う必要があります。

 なぜ適切に扱わなければ成らないかと言えばパウロが「 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」と言っている通りです。詩編で、栄光を主に帰している栄光を、自分の体で体現しなければ成らないのです。

 そして、主と結びついている者は、主と一つの霊となると言われている通りに、体と共に霊が一つとなっているのです。だからこそ、先にも言われていた様に、みだらな行いを避ける必要があるのです。

 人の犯す罪は全て外にあると言います。確かに罪を犯す機会は、たしかに人関係やもっと言うならば神様との関係の様に相手があって犯してしまうような罪が多いのは確かでしょう。それであるにもかかわらず、みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯していると言っているのです。

 私たちもキリストの体である教会の一員として、もっと言えば、キリストの体の一部とされている者として、それに相応しく体も霊も共に取り扱って行かなければ成らないのではないのではないでしょうか。  

 

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