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「ベツレヘムでお生まれになった」

クリスマス主日礼拝 

説 教   「ベツレヘムでお生まれになった」 三枝千洋牧師

           聖書 ミカ書5章1~3節  マタイによる福音書2章1~12節

 

 ここには、宝が隠されている。その宝とは、クリスマスの意味、福音のこと。さて、新しい王の誕生地について、「ユダの地、ベツレヘムよ」とある。

 もともとこれは旧約のミカ書5章に記されている言葉だ。「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。」

 ベツレヘムは村の名前。つまり地名。だが、まるで人に呼びかけるように書かれている。地名に呼びかけの「よ」を付けても大抵意味を持たない。「札幌よ」と聞いても二の句を想像しがたい。しかしこれが、「永田町よ」とか「霞ヶ関よ」だったらどうか。政府や官僚機構に一言言いたいのだと理解されうる。このように、地名が何らかの特性を持っている場合、地名に呼びかける表現は意味を持つ。

 ベツレヘムにはダビデ王家を生み出した地という特性があった。ダビデの曾祖父、ボアズとルツの結婚を祝う様子がルツ記4章にある。「そうです、わたしたちは証人です。(中略)あなたがエフラタで富を増し、ベツレヘムで名をあげられるように。」

 ミカ書が書かれたのは、紀元前8世紀の終わり頃。大国アッシリアの攻撃により北イスラエル王国が滅亡した。南ユダ王国の首都エルサレムもアッシリアに包囲され危機的状況に陥った。ミカは南ユダ王国の滅亡を預言した。ダビデ王家発祥の地ベツレヘムが「いと小さきもの」であるとは、ダビデ王家が王権を失った姿だ。王が権威を失い、軽んじられ、忘れ去られる、という厳しい預言だ。

 しかしミカは、滅びの預言と同時に希望を語る。ベツレヘムから、すなわち、忘れ去られたダビデの子孫から神のために、イスラエルを治める者が出る、新たな王が出る。永遠の昔、つまり天地創造のその時に、この新たな王の到来は定められている。救い主キリストのことだ。 

 さて、マタイによる福音書はこの箇所を引用しながらこう書いた。「ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決していちばん小さいものではない。」

「いと小さきもの」から「いちばん小さいものではない」、と表現が変わっている。ここに宝が隠されている。

 マタイ1章にイエス・キリストの系図があるが、これはダビデを特別扱いしてい。(表題、王、時代の区分、14代)。この福音書が、ダビデの町、ベツレヘムを「最も小さいものではない」、と書く。福音書記者は、ミカ書の「いと小さき者」を、王権の喪失とは別の意味と解釈している。このベツレヘムとはダビデ王その人のことだ。「小さい」とは、ダビデ自身が犯した罪について悔恨の姿だ。

 ダビデは部下であるウリヤの妻バト・シェバに横恋慕した。ダビデはウリヤを戦地に追いやって戦死させ、彼の妻を娶った。詩編51編はダビデがこの罪について懺悔する詩だ。彼は悔いて魂の絶え入るほどに苦しんだ。

 「しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を 神よ、あなたは侮られません。」マタイは打ち砕かれ悔いるダビデの姿を、「小さきもの」と読んだ。

「しかし、ベツレヘムよ、ダビデよ、お前が「最も小さい者ではない」と記す。すなわち、ここで誕生する王は、魂が絶え入るほどに苦しむ罪人ダビデよりも更に小さく、低くある方だ。罪人の代わりに、神に打ち砕かれるお方だ。だから、ダビデよ、お前が最も小さいわけではない、と。すなわち、この世の罪を替わりに背負い十字架に磔にされる、低きに下る王が来られる。人が、その魂が絶え入りそうになるまで己が罪にのたうち回る時、その苦しみを負うて下さるキリストが共にいらっしゃる。

 このキリストを信じる信仰によってのみ、私たちは罪から解放され、神の前に義とされる。このキリスト、イエスの御降誕こそ、私たちに与えられたクリスマスの宝なのだ。

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