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「言は神と共にあった」

待降節(アドベント)第4主日礼拝 

説 教  「言は神と共にあった」 岸 敬雄牧師

              創世記17章17~22節  ヨハネによる福音書1章1~14節

 

 ヨハネによる福音書の作者は、福音書最初の部分において「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった]と書き出します。ヨハネによる福音書は他のマタイ、マルコ、ルカによる福音書が共観福音書と呼ばれるように共通部分が多いのと違い独自の特徴を持って描かれています。

 ヨハネによる福音書は、4つの福音書の中で最後に書かれた福音書だと言われ、当時のグノーシス主義書と言われる異端者たちに対抗するために書かれたと言われています。

 その福音書の書き出しが「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」と書き出しているのです。

 そして、「言」と言われている神の独り子である主イエス・キリストは、神と共におられたと言っているのです。そして、はっきりと私たちの救い主である主イエス・キリストは神であると証ししているのです。

 イエス・キリストは、世界の創造の時から神としておられ、創造の御業にも携わっておられたのであり、まさに初めから、天父なる神と同様に神であり、神と共にあったと言っているのです。

 そして、「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」と続くのです。イエス・キリストの内に命がある。ここで言っている命とは、私たちがこの世で生きている命と言うよりも、もっと正確には永遠の命のことを指しているのではないでしょうか。

 命は人間を照らす光だと言い、暗闇の中で輝いていたと言うのであり、暗闇とは神様の反する思いを持った世の中のことで、その様な暗闇の中で命は人間を照らす光であり、光は闇の世に輝がやいていたのです。

 闇の世は光を理解していなかったのです。この世の闇の中で確かに光が輝いていたのであり、しかしその事実を闇の世自身は理解出来ていなかったのだと言うのです。

 その人について「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。」と言うのであり、神から遣わされた人としてのヨハネを登場させるのです。ここで言われているヨハネとは洗礼者ヨハネのことであり、彼は証しするために来たのだと言い、それは光について証しするために来たと言っているのです。「すべての人が彼によって信じるようになるためである。」と言うのです。イエス様の教えの道筋を整える役目として、悔い改めを宣べ伝えた洗礼者ヨハネの証しを通してイエス様へ導かれて行くのだと言っているのです。

 そして、再び以前に言われたことを「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」と「言」すなわちイエス様が世の全ての人を照らすために来られたのであり、世にあっても世は認めず、イエス様の民のところへ来たが、その民はイエス様を受け入れることはなかったと言っているのです。

 そして、イエス・キリスト信じる人々は「血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれた」と神によって生まれたものなのだ、もっと言うなら、この人の世にあっても、人によって生まれたものでは無く神様によって呼び集められたからこそイエス様を信じることが出来るものとして生まれることが出来たのだと言っているのです。

 さらに、福音書著者自身も「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。と自分たちの証しを付け加えているのです。

 そして、ヨハネの証しに戻り「 ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」と付け加え、「再び自分たちにわたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。」と自分たちのあかしを付け加えているのです

 この証しは私たちにとってもとても大切なもです。「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた」と言っている通り、イエス・キリストによって満ちあふれる豊かさの中から与えられた、恵みの上に、更に恵みを受けることこそが大切なことなのであり、その事を知ることがわたしたちにとってもこの上ない喜びなのですから。

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