過去の説教

異邦人の救い

待降節(アドベント)第1主日礼拝 

説 教  「異邦人の救い」     岸 敬雄牧師

聖書 イザヤ書52章1~10節 ローマの信徒への手紙11章13~24節

 今日からアドベントに入りました。クリスマスに向けて喜びの湧いてくるように思われます。本日の旧約聖書の箇所であるイザヤ書は、古くから旧約聖書の中でも大切な書として扱われてきました。

 ルカによる福音書の4章において、イエス様がお育ちになったナザレに戻られて会堂に入り、朗読されたのは本日の箇所とは異なりますがイザヤ書でした。その箇所は現在の私たちの聖書で言えばイザヤ書61章1,2節に当たる箇所だと思われますが、イエス様がイザヤ書を読み上げられて、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と言われたのでした。すると人々は一時喜びましたが、結局イエス様をナザレの人々は受け入れることができませんでした。しかし、イエス様が言われるように確かに救いは来ていたのです。

 なぜイザヤ書はその様に大切な書として扱われてきたのでしょうか。そこにはイザヤ書の作者とされるイザヤと言う名前に集約されていると見る人もいます。

 イザヤと言うのを翻訳してみると「ヤハウェは救いである」とゆう様に成るのです。ヤハウェとは、エローヒムなどと同様に旧約聖書で使われていた神の名前になります。即ち神が救いだと言う信仰告白の言葉が、それ自身イザヤと言う名前なのであり、神様を証しているからです。

 本日のイザヤ書の箇所においても、救いの往来を示されていることを示されています。『力をまとえ、シオンよ。輝く衣をまとえ、聖なる都、エルサレムよ。無割礼の汚れた者があなたの中に攻め込むことは再び起こらない。立ち上がって塵を払え、捕らわれのエルサレム。首の縄目を解け、捕らわれの娘シオンよ。 主はこう言われる。「ただ同然で売られたあなたたちは銀によらずに買い戻される」と。』

 エルサレムの解放が神の手によって買い戻されるイメージで語られ、それはまさにバビロンと言う異国へと連れ去られた捕囚の民の解放であり、それは同胞救いを示しているのです。

『歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃虚よ。主はその民を慰め、エルサレムを贖われた。主は聖なる御腕の力を国々の民の目にあらわにされた。地の果てまで、すべての人がわたしたちの神の救いを仰ぐ。』と言っているのを、バビロン捕囚により荒れ果てた自分たちの都エルサレムが、バビロン捕囚からの解放により復興する事に限定されるのではなく、主は聖なる御腕の力を国々の民の目にあらわにされた。

 「地の果てまで、すべての人がわたしたちの神の救いを仰ぐ」といっているように自分たちの救いが地の果てまで及んで、全ての人々が私たちの神すなわち、この地上をお作になられた新なる神の救いを仰ぐ、すなわち知ることが出来、そして仰ぎ受け入れる時が来ると言っているのです。

 本来、神から選ばれた民であるイスラエルが救われるはずであると言う選民意識を持っていたイスラエルの人々がその選民意識から脱して、神が作り出した全ての民にまで救いがもたらされて行くことを認識していた様にも読み取ることが出来るのです。

 さらに、全ての人の救いについてもっと具体的にローマの信徒への手紙に於ては、異邦人の救いとして描かれています。ローマの手紙の作者であるパウロは自分が「異邦人のための使徒であるので、自分の務めを光栄に思います」と言い切るのです。そして自分の同胞に妬みを起こさせてでも幾人かの人をすくいたいと、どの様な手段を取ってでも救われる人を見出したいと言っているのです。

すなわち、全ての人々に救いの機会が与えられ、自分が福音を伝えようとしている異邦人に対して接ぎ木のたとえによって注意を促し、驕り高ぶる事がないようにと勧めているのです。

 ユダヤ人は、不信仰のために折り取られましたが、彼らも、不信仰にとどまらないならば、接ぎ木されるでしょう。神は、彼らを再び接ぎ木することがおできになるのです。そして「もしあなたが、もともと野生であるオリーブの木から切り取られ、元の性質に反して、栽培されているオリーブの木に接ぎ木されたとすれば、まして、元からこのオリーブの木に付いていた枝は、どれほどたやすく元の木に接ぎ木されることでしょう。」と言い、そして、異邦人の救いが再び自分の同胞の救いへと繋がると確信しているのです。すなわち、全ての人々に救いの機会が与えられると信じているのです。

 主が伝えたいと思っている全ての人々に福音が行き渡り、主の福音が私たちにまで伝えられているのです。クリスマスに向かって主からの救いの福音が与えられていることを喜びながら過ごしていきたいと願うのです。

 

 

アーカイブ