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ピラトの尋問

降誕前第5主日(収穫祭)礼拝 

説 教     「ピラトの尋問」  岸 敬雄牧師

          聖 書  詩編17編1~8節 ヨハネによる福音書18章33~40節

 本日は収穫感謝の礼拝を捧げさせていただいています。収穫感謝の礼拝になるといつも思い出すのはかつて在籍していた教会において収穫感謝礼拝を捧げる時、教会学校などで果物などを持ち寄って礼拝後に一緒に皮をむいて食べたい愛餐のひと時のことです。

 誰が何を持ってきたかなど関係なく、皆変わりなく神様の恵みをいただく、まさにこれこそが愛餐なのではないだろうかと感じたものでした。早くその様な神様の恵みを共に分かち合うことが出来る愛餐会を開く機会が与えられるように成ればと願っています。

 詩編17編はダビデの祈りだと言われます。 ダビデは主に願って自分を取り調べてほしいと願でいるのです。主に調べていただければ、汚れた思いは何ひとつ御覧にならないでしょう。と言っているのです。

 そして色々な試しにあったとしても暴力の道を避けて、あなたの道をたどり一歩一歩、揺らぐことなく進みます、と言い切るのです。そして主の助けを願っているのです。

 主の尋問に対して、この様に潔くこたえられるとしたらなんと良い事でありましょうか。そして主の助けにたしての確信を持って願うことが出来ればどれほど喜ばしい事でしょうか。

 私たちは主によって調べられるとしたらどの様な思いがするでしょうか。胸を張って自分の潔白を主張することが出来るでしょうか。

 新約聖書において別の尋問の物語が伝えられています。こちらの尋問は人が神様を尋問しているのです。ピラトと言う人間が、神であられる主イエス・キリストを尋問しているのです。

 ピラトは、イエス様の当時ユダヤの地をローマ政府から統治することを任されていた総督でした。確かのこの土地の統治者として人を裁き、死刑にする力をローマ政府から与えられていました。

 しかし、本来神様であられるイエス様を人であるピラトが尋問するなどあっていいはずがありません。その様な本来あるべきではない事態が、どうして起こってしまったのでしょうか。何故なのかと言えば、このピラトの尋問も、イエス様による私たちの救いの為の御計画の一部だったからにほかなりません。そして、この尋問によって何が明らかになったのでしょうか。

 ピラトはもう一度官邸に入り、イエス様を呼び出して、「お前がユダヤ人の王なのか」と言ったのです。なぜもう一度官邸に入ったのかと言えば、ピラトはイエス様を引き渡しにきたユダヤ人たちと話をしたのちにもう一度官邸に入って来たのであり、イエス様のことを引き渡したユダヤ人たちが、イエス様を死刑にしたいと言う希望を持っていることを知ってイエス様を尋問しているのです。

 イエス様は、「お前がユダヤ人の王なのか」と言われてお答えになって「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」と問い返したのでした。

 ピラトにとって自分の問いに書たえるのではなく、逆に問い返してくるなどと言うことは、想定外の出来事だったのでしょう。なぜなら自分はユダヤ人にとっては支配者であり、自分が一方的に質問する立場であり、自分に対して問い返す人などいるはずがなかったからです。

 だからこそ、ピラトは「わたしはユダヤ人なのか」と言い返し「お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」とイエス様が何をしたのかと言う方向に話を変えているのです。

 しかし、イエス様はピラトが問いただしたように何をしたかを答えようとはせずに、「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない」と言われるのです。

 このイエス様のお答えに対してピラトが、「それでは、やはり王なのか」と、ものと話へと引き戻されてしまうのです。それに対してイエス様は、お答えになって「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」と言われるのです。するとピラトは「真理とは何か。」と言ったのでした。

 ピラトは、真理とは何かが分からなかったのです。ここでイエス様が言われている真理とは、覆われた覆いが取り除かれてあらわにされたものを意味して、救いのために啓示された神の御心としての「福音そのもの」を意味しているのです。その様な「真理」をピラトは理解出することが出来なかったのです。

 このような尋問の中で、追い詰められていくのは尋問している人間であるピラトの方であり、イエス様に何一つ罪が無いことが証明されて行くのです。

 だからこそ、ユダヤ人に対して「わたしはあの男に何の罪も見いだせない。」と言いながらもユダヤ人の要求に逆らいきる事が出来ずに、イエス様を十字架に架けることとなってしまったのです。

 いかなる場面を通してでも、神は主イエス・キリストの正当性を示され、人間に対する神の恵みのしるしとして、主イエス・キリストを通して与えられる救いの恵みを明らかにされるのです。

 私たちはピラトとは異なり、真理を理解しているはずです。ここでイエス様が示されている真理こそが、神様から与えられた最高の恵みなのですから。

 

 

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