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主がお入り用なのです

待降節(アドベント)第2主日礼拝 

説 教  「主がお入り用なのです」 岸 敬雄牧師

         聖書 イザヤ書62章10~12節 マタイによる福音書21章1~11節

 本日のイザヤ書の62章の10節~12節は先週のイザヤ書52章の10節、もっと入れるなら12節までを模倣していると言われるほどに内容的に近いものがあると言われています。

 しかし、52章と62章に相違としては、バビロン捕囚から帰還する民について言われていますが62章においては、帰還した民がまだ帰還していない民に対して言っているのです。

 まだ戻っていない民に対して城門に入るようにと言うのです。そして民が戻る道を民は道を開け、土を盛り上げ、石を取り除き、道を整えるようにと言っているのです。

 そして、諸国の民に向かって自分たちの印の旗を上げるようにと言っているのです。「主は地の果てにまで布告される」というのです。主が娘に例えられるシオンにどの様な事を言われるのかと言えば「見よ、あなたの救いが進んで来る」と言うのです。

 主の働きの報いである「主のかち得られたものは御もとに従い』進んでくると言うのです。その主の働きの報いであり、主の働きの報いはどの様な者たちだと言っているのでしょうか。

 それは聖なる民、主にあがなわれた者と呼ばれてると言うのです。「あなたは尋ね求められる女捨てられることのない都と呼ばれる」といって、主と主に従う救われた人々のエルサレムへの入場の様子が描かれているのです。しかし、エルサレムはその後にも何度も異邦人によって踏み荒らされることがありましたが、ここで言われている捨てられることのない都とは、私たちの教会も救われた者の集いとしては、捨てられることのない都であると見る事も出来るでしょう。

 この様に救いがエルサレムに訪れる様子が描かれていますが、その救いが私たちの世界に具現化されたものとして姿を現わされたのが、主イエス・イエスのお姿なのです。イエス様は、何度かエルサレムへと行かれていますが、その中で最後の入場場面は、特別な形で描かれています。

 マタイによる福音書21章1~11節の場面は、よく受難週などにも読まれる聖書の箇所ではありますが、その場面はイザヤ書に描かれている様に栄光のおとずれを示しているのです。

 イエス様が十字架にお架かりになる前の最後にエルサレムへおいでになる時には、イエス様に付き従った弟子たちは、イザヤ書に言われている救いの訪れがまさに実現している姿です。救いの顕現した姿であるイエス様は、主の救いを受け入れた弟子たちを引き連れて、エルサレムへと進んでくるのです。

 主なるイエス・キリストがお望みになった物は何だったでしょうか。それは子ろばだけだったのです。イエス様は弟子に言いつけて子ろばを向こうの村から借りてくるようにと言われるのです。

 イエス様がお求めに成るとしたら何でもあたえられたでありましょう。しかし、イエス様が求められたのは子ろばだけだったのです。イザヤ書で言われている預言が成就するようにしただけだったのです。それでも大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。

 そして群衆は、イエス様の前を行く者も後に従う者も「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」と歓喜の声を上げて叫んだのでした。しかし、イエス様にはその様なものも必要なかったのです。イエス様には人から与えられる物など必要なかったのです。全てをお持ちの神であるイエス様にとっては人から与えられる物は何も必要なかったのです。その様なイエス様が私たちの罪を贖うためにすべての物をお捨てくださったのです。そして、神であられる主イエス・キリストが、すべての物を持たない赤子となってこの地上にお生まれ下さったのです。救い主としてこの地上においでになってくださったイエス様は、何の力も何もない赤子の形をとって、私たち同様の肉を取って地上へと来てくださったのです。

 私たちの救いが、私たちと同じ肉を取った姿でこの地上においでくださった。だからこそ、このクリスマスの出来事が感謝すべきものであり、ありがたいのであます。

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