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しかし、わたしは言っておく

降誕前第9主日礼拝10月23日(日)

説教 「しかし、わたしは言っておく」  岸敬雄牧師

             聖書 レビ記19章13~18節 マタイによる福音書5章38~48節 

 レビ記はモーセ5書の最後の書と成りますが、その中にはモーセが民に対して最後に語り掛けている多くの戒めが書かれています。

 その中には、奴隷に関するものなど、現代の日本においては到底考えられない様な戒めもありますが、本日の16章に書かれている戒めは、そこまで無茶苦茶な気はしないでありましょう。「あなたは隣人を虐げてはならない。奪い取ってはならない。雇い人の労賃の支払いを翌朝まで延ばしてはならない。」と隣人との関係に関してや耳の不自由な人の悪口を言うことや、眼に不自由な人に対して、その前に障害物を置く様な具体的に障害となる事項を禁じているのです。

 裁判についても、強い者にも弱い者にも偏らず公平に裁くようにと言っています。さらに中傷や偽証の禁止、兄弟を憎むことに禁止、率直に戒めるように、同胞を率直に戒めていれば、相手の罪を負うことはないと言っているのです。

 そして、復讐の禁止と民の人々に対して恨みを抱くことの禁止。さらに、禁止ばかりではなく「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」と言われるのです。

 それに対して、本日のマタイによる福音書5章は、イエス様が山上で語られた長い説教の一部と成ります。その説教の中には有名な八福の教えや主の祈りなどもありますが、本日の箇所においては今まで言い伝えられた戒めに対して、新たな戒めについて述べられています。

 イエス様は「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。と言われます。 この戒めは本来の意味と違って、復讐を承認するような教えであると私たちは理解している所はないでしょうか。本来は意味としては、私たちが理解してる様な復讐の教えではなく、目には目、歯には歯と、それぞれ同等の対価しか請求してはいけないとの戒めなのです。 しかし、イエス様は「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」と教えているのです。それに合わせて「 あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい」と言われるのです。

  さらに、「 だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい」と物資以外の行動に関しても、求める物以上に与える様にと教えているのです。

 そして、そのまとめとして「 求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」と教えられるのです。

 さらに、「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。と言われるのですが、しかし、イエス様は「わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と敵のために祈るようにとすら教えているのです。今の厳しい社会から見れば『隣人を愛し、敵を憎め』と言う方が真っ当なような気がしてしまいますが、イエス様の教えは、悪い人のためにまで祈るようにと求めておられるのです。

 なぜそのように求められるのかと言えば、「あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」と天父なる神が、その創造物を平等に扱われているからだと言っているのです。

 さらにイエス様は「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。 自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか」。

 そして、「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」と言われているのです。私たちは、自分を振り返ってみて、イエス様が求められていることを実践できるでしょうか。実践できれば良いですが、もしできなければ、なぜイエス様はその様な事を言われたのでしょうか。

 それは、私たちが現在できない事であってもイエス様は、ご自身でその模範を示されて、私たちが少しでもイエス様が示された目標に近づくことが出来るようにされたのです。 今週も、御心に適う者と成れるように努力しつつ過ごして行こうではありませんか。

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