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キリストの手紙

聖霊降臨節第20主日礼拝10月16日(日)

説教  「キリストの手紙」  岸敬雄牧師

聖書 詩編62編6~9節 コリントの信徒への手紙二3章3~9節

  詩編62編は、ダビデの詩だと言われ、読まれてきました。そして詩編62編の中でダビデは、神にのみ私は希望をおいていると言い切るのです。そして、「神はわたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは動揺しない。」と神に対してのゆるぎない信頼を示しています。

 さらに、「わたしの救いと栄えは神にかかっている」と言い「民よ、どのような時にも神に信頼し 御前に心を注ぎ出せ」と民の指導者としてのダビデは民に勧めるのです。なぜなら、神はわたしたちの避け所だからだと言うのです。    

 神様との会話の手段として祈りがありますが、私たちは神様に対して信頼し、率直に隠し事などせずに祈り、語り掛けたいものです。

 神様に語り掛ける祈りは通信方法の一つだと言えますが、人間同士の通信方法としては、今では電話やメール、SNSなど色々方法がありますが、イエス様の時代だと代表的なもとしては、やはり手紙だったのではないでしょうか。    

 コリントの信徒への手紙二において、その作者であるパウロは、「あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています」と言っています。このあなたがたとは、この手紙を受け取るはずのコリントの教会の人々のことであることは確かです。

 コリントの教会員自身のことを、キリストがパウロたちを用いてお書きになった手紙だと言い、この手紙は「公にされているので、社会全体に向けて示されているのです。

 そして、この手紙は特殊な方法で書きつけられているといい、それは「墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙」だと言うのです。

教会員自身が手紙だと言うのですから、そこに書きつけるのが墨では無いと言うことは理解できますが、生ける神の霊によって書きつけられたと言っているのであり、生ける神の霊とは聖霊のことであると理解しても良いのではないでしょうか。そして、「石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた」と言うのです。

 石の板とは、十戒の授与の時に、石の板に十戒が書きつけられたことを思い出されます。石の板の様な日常使われている筆記用具ではなく、人の心の板に書かれているのだと言っているのです。神の霊によって心の板に書かれ、世の中に公にされている手紙、それがあなたがた、コリントの教会員自身だと言っているのです。

それでは、どの様な事がコリントの信徒たちという手紙に書かれているのでしょうか。それは、この先で言われている新しい契約なのではないでしょうか。

 さらに、パウロは神から与えられた資格によって働いていると言っているのであり、この資格とは新しい契約に仕える資格の様です。そして、この新しい契約は、救いの契約です。古い律法による契約に変わって新しい契約のために働く資格が栄光に満ちたものだというのです。

 文字すなわち古い律法によって救いに至ることが出来ないので、結局は殺すことに成るのであり、霊すなわち神の霊である聖霊は、私たちを命へと導いてくれる新しい契約を与えてくださるのだと言っているのです。

 コリントの信徒たちが公に向けて手紙として伝えることは、この霊に仕える人たちが伝えた救いの福音であり、これが神様との新しい契約なのです。

ですからコリントの信徒以外に私たちも、霊から与えられた証しを公に向けて証しすることが求められているのです。それが、どれほど栄光に輝く業であるかをパウロは伝えたいのです。 

 私たちが伝えるべきものは救いの福音です。古い律法では結局死にしか至らないものだと示し、主イエス・キリストはわたしたちが永遠の命へと歩んで行けるようにと、その道を示して下さったのです。

福音を霊が証して下さり、イエス・キリストを救い主として受け入れている人に対して神様は誰でも受け入れられるのです。

神の恵みの中で、私たちはイエス・キリストに従う者として、新たに生まれ直し、救いの道を歩み始めているのです。私たちも、このイエス・キリストの良き知らせである福音を公に知らせる手紙なのです。

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