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4千人の給食

聖霊降臨節第18主日礼拝  

説  教   「4千人の給食」  岸 敬雄牧師

                                                             聖   書            申命記8章7~10  マルコによる福音書8章1~9節

 モーセが最後言葉として残した申命記において、神様が約束の地について描かれている地を、皆さんはどの様に思われるでしょうか。日本の中にも色々な土地があり、それぞれに違いがあることは確かですが、7節のあるような「あなたの神、主はあなたを良い土地に導き入れようとしておられる。それは、平野にも山にも川が流れ、泉が湧き、地下水が溢れる土地、」とは、水の豊富な土地が多い日本では当たり前なような気がします。そして、8節の「小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろが実る土地、オリーブの木と蜜のある土地である。」というのも、オリーブは日本ではあまり取れないかもしれませんが、油を取ったり栄養がある実としては、ごまやアブラナ等が取れることは確かであり、やはり珍しい土地とは思えません。

 その様に考えて行くと日本は神様に祝福された土地であると考えることが出来るのではないでしょうか。イスラエルの民は、エジプトで奴隷の身分であったのを、モーセに率いられて荒れ野をさまよっていた人々にとっては、神様の恵みにあふれる土地であると実感できたのでありましょう。私たち日本人はもしかしたら神様から祝福を知らないうちから与えられているのかもしれません。

 人はそれ俺の立場によって感じ方、受け入れ方の違いが出てくるのではないでしょうか。本日のマルコによる福音書8章1節では「そのころ、また群衆が大勢いて、何も食べる物がなかったので、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。」と本日のマルコによる福音書の7章は、少し唐突に物語が始まっているような気がします。

 ここで言われている「そのころ」とは、前の6章の31節で「それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。」と言っている様に、イエス様と弟子たち一行は地図を見ていただくとわかりますが、それなりの距離を旅して、宣教を始めた最初の地であるガリラヤ湖へと戻って来たのでした。

 イエス様一行が戻って来たと聞いた人々は、耳が聞こえず舌の回らない人を連れてきてイエス様の癒していただくのです。そして、イエス様が「だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。」すっかり驚いた群衆は「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」と言って、言い広めたのでした。

 言ってみれば、群衆はイエス様の奇跡の業をみて、興奮状態であったと言えるでしょう。そんな中で群衆はイエス様のつき従ってきていたのです。

 そのような群衆は大勢およそ4千人居たと言われるのです。そして何も食べる物がなかった状況にあったのです。そんな時に、イエス様は弟子たちに向かって「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる」と言われるのです。

 それに対して弟子たちは「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか。」と答えたのです。この弟子たちの答えには、自分たちの責任から逃れようとする責任回避の思いが込められていたのです。

 するとイエス様は、パンがいくつあるかお尋ねになり、7つのパンをとり感謝の祈りくばり、小さい魚が少しあったので、賛美の祈りを唱えて、これを配らせると、人々は食べて満腹したというのです。そして、残ったパンの屑を集めると、七籠になった。そしてそこにはおよそ四千人の人がいたというのです。

 以上の出来事が4千人の給食の出来事の概略になりますが、イエス様と群衆の関係の物語と言うよりも、イエス様と弟子たちの間の出来事として描かれていることが分かります。事実、群衆については「人々は食べて満腹した」としか描かれていないのです。

 弟子たちは、イエス様に答えた後は、イエス様に命じられたことを行うだけで、それに対する反応は群衆同様に描かれていません。結果は、「残ったパンの屑を集めると、七籠になった」のみで群衆は解散させられましたが、弟子たちについてはどの様に反応したのかさえ描かれていません。

 それは、まるで直前にイエス様の奇跡を見ていた弟子たちも、群衆もイエス様を理解することが出来ていなかったことを示しているのではないでしょうか。群衆も食べて空腹を癒すことが出来て満腹と成っただけなのでした。

最後に、「残ったパンの屑を集めると、七籠になった。」とはっきりと奇跡が行われたことを示し合上で、およそ四千人の人がいたに対してイエス様は何も求めようとはしないで、彼らを解散させられたのでした。

 弟子たちにも、この場面では何も求めようとはしていないのです。イエス様は群衆のことも、弟子たちのことも良く理解しておられたのでありましょう。イエス様は々に対して何もお求めることない無償の奉仕を示されているのではないでしょうか。

 弟子たちのように自分の責任を逃れようとして言いわけをするわけではなく、もっと言うならば自分の従うべき天父なる神に対しても無条件に従うことを示しているのではないでしょうか。

 そして無償の奇跡としてイエス様が与えてくださるものの先触れたされたのではないでしょうか。イエス様は人々にパンと魚をお与えになったように、ご自分をすべてお与えになられたのです。ご自分の体をあの十字架にお掛けになって、私たちに罪を贖って下さったのです。

4千人の給食や5千人の給食は教会における愛餐の形として、主から与えられる無償の恵みの形として私たちに引き継がれて、私たちも共に分かち合うようにと言われ、愛餐における交わりも大切なものとしてまいりました。確かに、愛餐の業は大切ですが、イエス様から私たちに与えられた恵みは、この後に行われる聖餐式で私たちが思い返すあの十字架における主イエス・キリストの血と肉による贖いの業なのです。

 私たちは主イエス・キリストの肉と血によって養われて今月も主の愛の恵みを味わいつつ歩んでいきたいと願うのです。

 

 

 

 

 

 

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