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このようなことは

                                                                    聖霊降臨節第19主日礼拝10月9日(日)

                                     説教       「このようなことは」  岸敬雄牧師

                                    聖書 出エジプト記34章4~10節 マルコによる福音書2章1~12節

 

 イエス様は再びカファルナウムに来られ時のことです。大勢の人が集まって来たて家の戸口あたりまでいっぱいに成りました。この家が誰の家だか、どの様な家かは分かりませんが、イエス様がいた家は石作の立派なものでは無く、屋根は日本のかやぶき屋根のように、草で造られていたようです。その様な草ぶき屋根は、現在私たちが観光地などで見ることに出来る様な立派なわらふき屋根とは違い、普通は一部屋しかなく、雨期に入る前には毎回修理しなければ成らないようなものでした。

 そのような、比較的粗末な家にいるイエス様のもとに集まってきた人々は、イエス様の御言葉を聞いていたのでした。そこに四人の男が、中風の人を床に寝かしたままで運んで来たのでした。中風とは現代で言えば脳出血や脳梗塞などで体が動かない麻痺のような症状が出ている病人であると考えていただければ分かりやすいのではないでしょうか。

 中風の人を連れてきた四人の人たちの目的は、勿論イエス様に中風の人を癒して中風を治していただく事であったのはこの行動でも確かです。中風の人は自分で歩くのはおろか起き上がるのも困難な重症であったことがうかがえます。起き上がれないような中風の人を、多くの人に妨げられてイエス様のもとへと連れて行くことが出来なかったのです。すると、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、中風の人を寝ている床のままつり降ろした。するとイエス様は、中部の人を連れてきた人々の信仰を見て、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦される」と言われたのでした。

 イエス様は、中風の人に癒されるとか、病気は治ったとは言われないで「子よ、あなたの罪は赦される」と言ったのです。イエス様の時代には病気になったのは罪の結果だったと考えられていたのでした。だからこそ、「罪は許される」といったのです。しかし、なぜイエス様は「子よ」と呼びかけたのか、四人もの人が寝ている床をもって連れてきたのですから子どもだったとは考え辛いです。それなのになぜ「子」なのでしょうか。それはこの中風で運ばれてきた人も、神様の子どもであることをイエス様は認められたからではないでしょうか。

 寝床に乗せられて何もできないこの中風の人は何も出来ていませんでした。イエス様は近くの屋根まで剥がしてイエス様の近くに下した人々の信仰を認められたはずです。しかし、この運ばれてきた人に対しても神様の子どもであることを認めたのです。そして、「罪が許される」と言われたのです。そして、この中風の人は特別な働きをする機会が与えられたのです。

 イエス様が、「罪は赦される」と言われたことについて心の中であれこれと考えた人たちが居たのでした。その人々とは、数人の律法学者で心の中で「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」と考えたのでした。

 イエス様は、御自分の霊の力によってすぐに、彼らが心の中で考えていることをお察しになると、「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」といわれて、中風の人に「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われたのでした。

 中風で今まで床に乗せられていた人は、イエス様に言われた通り「起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った」のでした。その一部始終を見ていた人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美したのでした。

「今まで見たことがない」のは、どの様なことでしょうか。イエス様によって病気を癒される様子を見た事が無かったのでしょうか。しかし、イエス様による病気の癒しの業は信仰を認められた所では多く行われてきた奇跡だったのではないでしょうか。

 では何が見た事が無いのか。それはやはり神以外に出来るはずの無い人の罪が許されたのを目の当たりにしたことです。その証しとして、病が癒されて、病人は自分が今まで寝ていた床を担いで出て行ったのも見たのです。中風だった人は、癒されることによって、イエス様が地上でも罪を赦す権威を持っていることを証明する働きを担ったのです。

 そして、この地上で人の罪を赦す権能をお示しになったイエス様こそが、私たちの救い主であり、希望の光であることを知らされたことであります。

 今日に旧約聖書はモーセが改めて十戒を受けに行く場面ですが、神はひとたび民に怒りを発せられても、思い返してくださるお方だったのです。そのように私たちのことを思って下さっているお方を私たちは伝えているのです。

 そしてその私たちのことを思って下さるからこそこの地上に救い主としてイエス様を送って下さり私たちに希望を与えてくださったのです。私たちはその主イエス・キリストについての希望を伝えていくのです。

 

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