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信仰とは

聖霊降臨節第17主日礼拝 9月25日(日)

                説 教 「信仰とは」   岸敬雄牧師

                聖 書 創世記5章21~24節  ヘブライ人への手紙11章1~7節

 創世記においては、多くの登場人物がおりますが、その中で本日の創世記5章に出てくるエノクは、わずかな記載しかありませんが特別な人として描かれています。エノクは65歳でメトシェラをもうけた後300年神と共に歩んだと言うのです。そして息子と娘をもうけてた後に365年に神に取られたのでいなくなったと言うのです。

 これだけが旧約聖書に書かれたエノクに人生の概略に成りますが、エノクは神と共に歩んだのちに神に取られたと言うのです。これこそが、信仰に生きた人の典型的な形なのだと旧約聖書は伝えているのです。そして、この地上の生活においては、神と共に歩み、最後に神によって取られるのです。神の主体性によって救いの業がなされたことを示し、神によって人が認められた出来事として描かれているのです。

 ここでは死んだと言うのではなく神が取られたのでいなくなった、と特別な最後を伝えているのです。この様な特別な最後は、信仰深く神と共に歩んだ人々の特徴として、以後、モーゼの最後やエリヤが天に上げられた最後などの先駆けとして描かれています。

 信仰についての、ヘブライ人への手紙11章で言われている「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」と言うのは、信仰についての有名は聖書箇所なのではないでしょうか。

 そして、さらに信仰について「昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました」というのです。ここで言われている昔の人とは、旧約聖書に描かれている人々であり、先に挙げたエノクもその一人であると認識されています。

 そして、私たちが信仰で知ることが出来るものとし、天地創造の御業について取り上げて、「この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです」というのです。そして、天地創造の御業は神の言葉によってなされたと言うのです。

そのは、神様が御言葉を発せられたことによって天地創造の御業をなされたと理解する事は勿論出来ますが、それと共に、ヨハネの福音書の一章にある様に、神と共にある言、すなわち神と共にあった主イエス・キリストによって天地創造の業が行われたのである、その様に見る事も出来るのです。

 旧約聖書では、主イエス・キリストの名前も姿も見ることはありませんが、だからこそ「目に見えているものからできたのではないことが分かる」と言っていると考えられるのです。

 そして、さらに旧約聖書のアベルはカインの兄弟について言及するのです。アベルとカインの兄弟はアダムとエバがエデンの園を追放されて初めに生まれた子どもで、兄のカインは農作を行う者と成り、弟のアベルは獣をかう者と成りましたが、共に神様の前に捧げものを持ってきましたが、本日のヘブライ人への手紙でも言われている通りに「アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです」と言われるのであり、しかし、そのことで弟のアベルを妬んだ兄のカインは弟のアベルを殺してしまったのです。「アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています」というのです。たとえ死んだとしても信仰によって語り伝えられているのです。

  ユダヤ教において、たとえ死んだとしてもその死んだ人の血は依然として証言し続ける、証しし続けるとの考えがあり、旧約聖書においてはアベルの血が主に向かって「土の中からわたしに向かって叫んでいる」と言われているのです。

 さらに、アベルの血と主イエス・キリストの血を比べて、それ以上に主イエス・キリストの血が力強く語るのでと言っているのです。

 私たちの罪の贖いのために流された救い主の血は、私たちの救いの確かさをかたっていてくださるのです。救い主の血潮によって洗われたからこそ、私たちは清められたのであり、これこそが救いの確かなしるしなのです。。

 そして、先に創世記の部分で見たエノクについて「信仰によって、エノクは死を経験しないように、天に移されました。神が彼を移されたので、見えなくなったのです。移される前に、神に喜ばれていたことが証明されていたからです」と言うのです。

 そして、「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです」と神の存在を信じることの必要性を伝え、神に近づく者の条件として神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを信じていなければならない。また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないと言っているのです。

 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することであるのは確かでありますが、それは私たちの努力だけではなく、神からの呼びかけに答えることでもあるのです。人にはできない事であっても神には何でもお出来になることを信じて私たちは今週も歩んでまいりましょう。

 

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