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十字架のほかに

聖霊降臨節第16主日礼拝 2022年9月18日  

説教 「十字架のほかに」          岸 敬雄牧師

            聖書 詩編142編2~8節   ガラテヤの信徒への手紙6章11~18節

 

 詩編142編は、ダビデがガドから逃れて隠れ場所として洞窟を見つけてみ御やせた時、神以外に誰も助けるものもなく、ただ一人で過ごしている時の歌だと言われます。

 祈っている者は、迫害者に悩まされて危険の中ただ一人でいるのです。わなにかかっていると言うのがどの様な罠にかかっているのかは曖昧ですが、それはこの後の報酬の様な拘束された状態や彼から裁判にかけられる前に留置場に入れられているような状態を想像させる表現で十分に表されているでしょう。

 その状況で、声を上げて主に憐れみを求めているのです。御前に自分の悩みを注ぎだし、苦しみを訴えるのです。自分の霊がなえ果てるときどの有様にどの道を行くかを知っていてくださると言い、その道には、わなが仕掛けられていると言うのです。

 主に対して目を注いでくださるようにと望むのです。友もなく逃げ場は失われ命を助けようとしてくれる人もないと訴えるのです。だからこそ、主は自分の避けどころ、命あるものの地で私の分となってくださる方だと言うのです。

 自分の叫びに耳を傾けくださるように、なぜなら甚だしく卑しめられていているので迫害する者から助け出してくださいと願うのです。彼ら、敵が自分より強いから、「わたしの魂を枷から引き出してください。あなたの御名に感謝することができますように。主に従う人々がわたしを冠としますように。あなたがわたしに報いてくださいますように」とねがうのです。頼れるのは主以外ない、そして自分は柔くとも主は正しい者を救い出して下さるとの信頼がここに表されているのです。 

 主なる神以外に救いがないことを良く表しています。そして、新約聖書においてさらに私たちが誰によって、そして何によって救われるかがはっきりと示されたのです。

 本日のガラテヤの信徒への手紙6章11~18節は、ガラテヤの信徒への手紙の最後の結びの場面になります。このガラテヤの信徒への手紙の作者であるパウロが「このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています」と言うのです。

 パウロは目が悪かったのではないかと言われ、手紙を普段は口述筆記してもらっていたと言われています。そんなパウロが今は特別なことを伝えたいから、自分の手で、にこんな大きい字で手紙の最後の箇所を書いていると言っているのです。

 それだけ特別に伝えたいことだと言っているのです。その伝えたいこととは、それはまずは割礼の問題でした。「肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています」というのです。

 割礼はアブラハムの時代に神様との契約のしるしとして与えられたものであり、イスラエル、それに連なるユダヤ人にとっては自分たちの仲間である眼に見える象徴と言うできものでした。目で見える物にたよって、すなわち

割礼と言うしるしに頼って、キリストの十字架、すなわち私たちの救いの源、福音の中心対する迫害を受けないために、ユダヤ人としてのしるしである割礼を受けさせようとしているのだと言っているのです。

 

 しれに対して、律法で定められている割礼を受けている者たち自身が実は律法を守っていない、肉について誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでのだとパウロは言うのです。

 十字架のゆえに迫害されたくないばかりに割礼を受けさせたいと望んでいる者に対してパウロは、「このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」と言い切るのです。

 パウロは、割礼の様な律法に記載されている外見的なものを誇るのではなく、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはならないと言うのです。私たちが誇るべきものは主イエス・キリストの十字架なのです。

 そして、主イエス・キリストの十字架は、私たちの主イエスキリストの十字架なのです。この十字架は主イエス・キリストと共にパウルも私たちも共にかけられた十字架なのだと言うのです。

 「この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです」と言い、私たちはだからこそ主イエス・キリストの十字架を自分たちのものであると示し、世の中は主イエス・キリストによって私たちを、キリストを信じる者と認識するのです。私たちは世に対して主イエス・キリストの十字架によって知られるのです。そして、割礼ではなく主イエス・キリストの十字架にって私たちは神のものとされているのです。

 律法におけるしるしである割礼の問題ではなく、大切なのは新しく創造される事だと言うのです。皆様は新しく創造されておりますでしょうか。私たちは主イエス・キリストと共の十字架に付けられて、今までこの世的に、肉に支配される生き方をしていた私たちは死に、福音に生かされ、神の導きの光の下で新たに生まれ続ける人生へと変えられたのです。年など関係なく私たちは新たに主によって福音に喜ぶ人生に日々生まれさせられているのです。日々私たちの人生に新鮮な喜びを主によって与えられているのです。

 そして、パウロは最後に「兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、アーメン。」とパウロは手紙を受け取るであろう兄弟たちを祝福するのです。

 私たちも神様の日々祝福され、それを感じて過ごして行きたいと願うのです。

 

 

 

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