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神がご存じです

 

                                                                       聖霊降臨節第15主日礼拝 9月11日(日)

                 説 教 「神がご存じです」   岸敬雄牧師

                 聖 書 詩編32編5~7節

                     コリントの信徒への手紙二11章7~15節

 詩年32編は、悔い改めの詩編と言われている7つの詩編の2番目となる詩編です。しかし、詩編全体が悔い改めの祈りと言うのではなくて、むしろ悔い改めを実践する教訓を教える様な詩となっています。

 詩編の作者は5節において、主に対して罪を示し、咎を隠さず、それを告白した時に、主は、罪と過ちをお許しくださった。その様に自分が罪許された経験を述べるのです。

 そして、主の慈しみに生きる人は皆あなたを見出しうる間に主に祈りを捧げるのだと言い、その様な人々は大水があふれ流れる時にも、その人には及ばないと、禍が及ぶ事が無いことを言い表すのです。

 そして、主はどの様な方であるか、それは私の隠れがであり、苦難から守って下さる方、そして救いの喜びを持ってわたしを囲んでくださる方だというのです。なぜ、そこまで恵みを与えてくださる方だと言い切れるのは、悔い改めたことを神様が知っていてくださるからにほかならないのです。

 コリントの信徒への手紙二において、パウロがどの様な相手に対して論争しているかについては、「偽使徒、ずる賢い働き手であって、キリストの使徒を装っている、」とパウロは言っていますが、具体的にはわかりません。ただ、何らかの金銭を受け取ること使徒としての正当性について論争があったものと思われます。

 この論争について、パウロ自身が自分の正当性を主張する根拠としているのが、「神がご存じです」と言うことです。神様ご自身が最終的な証人だとしているのです。そして、神様が最終的には知っていてくださると言う信頼のもと、自分の正当性を証明しようとしているのです。

 それを順番に見て行こうと思います。

 はじめに、「あなたがたを高めるため、自分を低くして神の福音を無報酬で告げ知らせたからといって、わたしは罪を犯したことになるでしょうか」と言い、自分が無報酬で神の福音を告げた事、そしてあなた方を高めるために自分を低くしたことを問題視した者たちがいたことが察しられます。

 しかし、どの様な状況にあるかとしても「アカイア地方で妨げられることは決してありません」と言っているのです。しかし、その反面アカイア地方でかなり強力にパウロたちを妨げようとしている人々がいたことが考えられるのです。

 その者たちの主張の一環として、神の福音を無報酬で告げ知らせたことが、使徒としての権威を低下させるものだとの批判があったようです。だからこそ「神の福音を無報酬で告げ知らせたからといって、わたしは罪を犯したことになるでしょうか」と言っているのです。

 そして、自分たちが神の福音を無報酬で告げ知らせるためのどの様な努力をし、どの様な協力があったかを、「マケドニア州から来た兄弟たちが、わたしの必要を満たしてくれた」と言っているのです。

 神の福音を無報酬で告げ知らせることを、まさに罪であるかと言っているのがいたのであり、その様な者たちがパウロに反対したのです。だからこそ、パウロはどちらが正しいのか、それは神様がご存じであると言っているのです。

 コリントの教会に対して負担をかけない様に他の諸教会からかすめ取るようにまで奉仕してきたのです。「このようにわたしが誇るのを、アカイア地方で妨げられることは決してありません。」と言い切るのです。

 それはなぜか「わたしがあなたがたを愛していないからだろうか。」と愛していることを問いかけの形で言うのです。そして、わたしがあなたがたを愛して言いることは神様がご存じであると言って、コリントの人々を愛していることの証人として神様を立てるのです。

 そして今後もどう用の行動を取り続けて行くと言うのです。それは「わたしたちと同様に誇れるようにと機会をねらっている者たちから、その機会を断ち切るためです。」というのです。

 そして、このような者たち、すなわちパウロが偽使徒、ずる賢い働き手であって、キリストの使徒を装っている者たちの行動は驚く事ではないと言うのです。

 「サタンでさえ光の天使を装う」のだというのです。パウロにとってはその様な福音を宣べ伝えることに対するキリスト者、指導者を装ったいる者たちでさえ珍しくなかったのでありましょう。だからこそ、その最期は「彼らは、自分たちの業に応じた最期を遂げるでしょう」といいきるのです。

 イエス様から代価なしで受けた福音をまさに金儲けの目的で伝えているようなものはその業に応じた最期を迎えると言っているのです。

 イエス様が私たちに代価なしに伝えてくださった福音は、まさに、主イエスキリストの十字架の救いであり、私たちの罪からの解放、そして永遠の命への導きなのです。

 その福音を私たちが信じて行けるのは、私たちがどの様に弱くても、私たちがイエス様を信じ、神様のみもとに帰ることが出来るとの信仰を持ち続けて行くことが出来る者であることを、神様が知っていてくださるからです。

 私たちも自分の信仰が揺らいでしまいそうになる時でも、主イエス・キリストが救い主であり、主イエス・キリストを信じる私たちを必ずお救い下さることを「神がご存じです」と言い切ることが出来るからこそ、立ち直りもう一度立ち上がって信仰の道を歩み続けて行くことが出来るのです。

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