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安息日の癒し

聖霊降臨節第14主日礼拝 9月4日(日)

 説 教 「安息日の癒し」   岸敬雄牧師

                聖 書 詩編122編6~9節 ルカによる福音書13章11~17節

 安息日はもともと神が天地創造を終えて休まれたのを記念して、第7日すなわち土曜日が安息日と定められていました。しかし、主イエス・キリストを信じるクリスチャンは、イエス・キリストが復活したことを記念して、安息日を主の日として、日曜日としました。その習慣にならい殆どにイエス・キリストの教会では、安息日を日曜日としています。 

 私たちの教会でも安息日を主日、日曜日としていますが、私たちが安息日、すなわち主日に、何を求めて教会へ来ているのでしょうか。それは、個人個人それぞれであることは確かでしょう。ある人は自分の信仰を確かめ、更なる信仰の養いを得るために来られるかもしれませんし、若者の中には友達との親交を深めるのが中心のように見える人もいるかもしれません。それ以外にもあるとおもいますが、それでも、多くの人々が、安息日に教会に来る目的の一つに癒しを求めていることは確かなのではないでしょうか。

 私たちの生きている社会において平和が大切であることは、誰でも認識していることなのではないでしょうか。しかし、実際には、平和とは相いれない争いが多くみられるのが現実なのも確かです。

 そして、心が傷つき癒しを求めて教会へと来て、主の恵みにより癒されて、これから一週間の霊の糧を頂いて日常の生活へと教会から送り出されて行くのです。

 詩編において、神の都であるエルサレムの平和を求める様にと呼びかけられています。そして、あなたを愛する人々に平安があるように、あなたの城壁、城郭の内に平和がある様に、わたしの兄弟、友のために、あなたの内に平和がある様にと言うのです。

 さらなる願いとして「わたしたちの神、主の家のために。あなたに幸いがあるように」というのです。

 私たちも主日には、この様に愛する人々、私たちの兄弟姉妹、町の中にいる人々にも平和があり、主の家、教会にも幸いがある様にと願いたいものであります。

 新約聖書においては別の意味で、癒しを求める人の話が出て来ています。それは、十八年間も病の霊に取りつかれている女のことです。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった、と言うのです。病の霊に取りつかれてと言うのですから、加齢により自然に腰が曲がったわけではなかったことははっきりとわかります。現代で言えば背骨の変形を伴うような病気だったのでありましょう。

人から見て、一目見てわかる病気の状態で、十八年間も過ごしてきたのは、どれほどの苦痛だったでしょうか。

 イエス様が、その女をどの様に知って選ばれてお呼びになられたかは書かれていませんが、イエス様は、その女を見て呼び寄せられ、敬意を持って婦人と呼ばれ、「婦人よ、病気は治った」と言って、その上に手を置かれたのでした。

 すると、女はたちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美したのでした。女はイエス様に感謝を捧げたのではなく、神に感謝を捧げたのでした。

 私たちにとっては、イエス様も神であられるので神に感謝を捧げるのはイエス様に捧げるのと等しいようにも思われますが、目の前にいる御方ではなく、自分が信じる神を賛美したのであり、癒された女が自分を癒すと言う行為は、神の業であったことを理解していたことを表しています。しかし、ここで神の業の真意を理解できないものが出てくるのです。

女が癒されたことについて、会堂長は、イエス様が安息日に病人をいやされたことに腹を立てたというのです。腹を立てた原因は、この腰の曲がった女が癒されたのが安息日だったからだと言うのです。

 そして、会堂長は群衆に向かって「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない」と言ったのでした。なぜ群衆に言ったかと言えば、それは群衆を味方に付けて、イエス様に反対するためでした。

  しかし、イエス様はこの会堂長に答えて「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」と言われたのでした。

 なぜイエス様は偽善者と言われたのでしょうか。それは、安息日を形だけ守り安息日の本当の意味を理解していなかったからです。そして、真の安息日の主であるイエス様は、安息日がどの様なものであるかをお示しになったのです。

 だからこそ、形骸化した安息日の教えを教えていた者たち、すなわち、イエス様の反対者は皆恥じ入る事に成ってしまい、群衆はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだのでした。

 私たちも、決して主日も含めて形骸化した信仰ではなく、もっと生き生きとした信仰で、主に喜ばれる信仰の道を歩んで行くことを心掛けていきたいと思います。

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