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目を覚ましていて

聖霊降臨節第13主日礼拝 8月28日(日)

説 教 「目を覚ましていて」   岸敬雄牧師

               聖 書  アモス書3章13~15節 ルカによる福音書12章35~48節

 アモス書3章において、北イスラエル王国の首都サマリアに住んでいた特定の階級、すなわち本日読まれた聖書箇所の少し前書かれている様な「今はサマリアにいて豪奢な寝台やダマスコ風の長いすに身を横たえていても」と言われていわれていような、豪華な寝台や長椅子に寝そべって日柄過ごして行けるような余裕のある、言い換えれば、地位や財産がある人々に対して警鐘を鳴らしているのです。

 主なる神は、「イスラエルの罪を罰する日にベテルの祭壇に罰を下す。祭壇の角は切られて地に落ちる。」と言われるのです。ここで言われているイスラエルとは、現在のイスラエルとは違い、もっと正確に言えばダビデの子孫の王国である南ユダ王国に対しての北イスラエル王国のことを指しているのであり、アモスは、この北イスラエルで代々行われてきた罪にたいして断罪して、裁きの日について主、なる神が行われる裁きについての言葉を人々に知らされているのです。

 ベテルの祭壇に罰を下す、と言われている、ベテルとは、本来地名でアブラハムの時代からこの名前は出て来ています。一時は契約の箱が置かれていたこともあり、祭壇が築かれていて聖地のひとつと成っていたましたが、しかし、ヤラベアム王が金の仔牛をすえ、偶像礼拝の中心地となってしまっていました。

 偶像である金の仔牛の像が据えられていたので、その空像である金の行使の力の象徴である角を折ると言っているのです。この金の仔牛の偶像については、出エジプト記における十戒を受領する際にイスラエルの民が金の仔牛を作って自分たちの神だと言って神に背いた事件を想起させます。

 そして、主なる神は冬の家と夏の家、すなわちすべての季節に住む家を打ち壊すと言っているのです。日本にはしっかりと春夏秋冬と四季がありますが、世界ではしっかりと四季がある方がむしろ珍しいのではないでしょうか。そして、イスラエルはしだいに定着して農作業も行っていましたが、本来は家畜を飼って遊牧生活をしていました。そして、家畜を放牧して、餌を求めて旅をする生活をしていたのです。その為に、夏と冬とで、住むところの違いがあり、家が異なっていたものと思われます。その様な意味からいえば、何時の時期にでも過ごしている家を打ち壊す。全ての住みかを打ち壊すと言っているのです。

 さらに合わせて、象牙の家、輸入された貴重な象牙によって造られた家も、大邸宅も消えうせる、と金持ちの家も打ち壊されるのだと言っているのです。

 主なる神が預言者を通して、裁きについて民に伝えるのは、悪が満ちていて裁きが近いと伝えておられるのですが、それと共に裁きが来る前に、民に対して罪を自覚して悔い改めるためる機会を与える為に、警告を与えているのです。

 私たちも、神様からの警鐘に、いつも目を覚まし、耳を澄まして、お聴きする体制を整えていなければいけないのです。

 本日の新約聖書の箇所においても、一つのたとえを用いて目を覚ましていることについて教えられています。この目を覚ましている時とは、イエス様の再降臨の時を示しているのです。イエス様の再降臨の時に人々がどのようにしていなければ成らないかを示しているのです。

 どの様に目を覚ましているのかと言えば、「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。」といわれるのです。その準備をしておくのを「主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。」と言われるのです。主の再臨の時とは、婚礼の様な喜びの時であり、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ、と言われているのです。

 婚礼が夜行われ、何時終わるのかわからない、しかし、その喜ばしい時を過ごした主人が帰って来た時、不評をかう事がないように、「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」そして、「主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。」といっておられるのです。

 何時でも準備していて主がいつ帰って来られたとしても、それを迎えることが出来るように準備を整えた態度を取れるようにと言っているのです。

 何故なら、主人が何時帰って来るかはわからないからだと言うのであり、さらに「主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。」と言われるのです。

 そのうえで、「はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。」と言われるのです。

 少し違和感があります。突然に帰宅した主人が準備を整えていた召し使いから給仕を受けるのならわかりますが、主人の方が給仕をしてくださると言うのです。主従関係が逆になっているのです。主人が僕に奉仕してくださるのです。僕には出来ない奉仕を、主人はしてくださるのです。

 主人が僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれるのでしょうか。給仕とは奉仕の象徴として当たられていることです。主人は僕である私たちでは出来ない、主人でなければできない奉仕をしてくださるのです。

 それは、まさに私たちの罪の贖いであり、主イエスキリストの十字架の贖いによりる神との和解の業です。罪人である私たちの方からは出来ない業を主人の方から行って下さることを指し示しているのです。

 だからこそ、「主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。」と言われているのです。私たちも主から幸いな者と言われるように、目を覚まして何時も備えをしておきたいものであります。

 

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