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霊に燃えて

聖霊降臨節第12主日礼拝 8月21日(日)

              説 教 「霊に燃えて」   岸敬雄牧師                      聖 書 エゼキエル書11章17~21節  ルカによる福音書12章35~48節

 エゼキエルは本日の箇所で主なる神の絶対的な裁きによって散らされたイスラエルの民が、諸国から再び呼び集められて、あらゆる憎むべきもの、忌まわしいもを取り除いていただける。そして主なる神は「彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける。わたしは彼らの肉から石の心を除き、肉の心を与える。」と言われる。

 それが何のためであるかと言えば「彼らがわたしの掟に従って歩み、わたしの法を守り行うためである。こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。」為なのだと言われるのです。

 私、すなわち主なる神が、彼ら、すなわち散らされたイスラエルの人々が呼び集めた人々の神と成ると言われているのです。一度散らされても今一度呼び集めてその人たちの神となってくださると言うのであり、これこそが救いの言葉としてエゼキエルは伝えているのです。

 しかし、それでも「憎むべきもの、忌まわしいものに心を寄せている者には、彼らの行ってきたことが頭上にふりかかるようにする。」と主なる神は言われ、主に対して従うかどうかは、あくまで人間側に委ねられていることを示されているのです。

 この主なる神による呼び集めはバビロン捕囚の後の期間の出来事とみるか、今私たちが教会へと呼び集められて主イエス・キリストの再降臨を待ちわびている現在もなお進行途中の出来事と見るか、意見が分かれるかもしれませんが、私たちに求められていることは、旧約聖書で言えば「掟に従って歩み、わたしの法を守り行う」事であり、現代的に言い換えるならばキリスト者として、そして教会員としてふさわしく生活して行くことであります。

 新約聖書の本日の箇所で箇所においてキリスト者の模範的な生活を送るために、どの様であるべきかを情熱的にパウロは語っています。

 はじめに、神様の愛であるアガペーに対して偽りがないようにと語るのです。愛がまず一番大切なものであり、愛には偽りがあってはいけない、言い換えるならば純粋な打算や見返りを期待するようなものではいけないのだと言っているのです。

 そして、いわば愛と対局にあるような悪を憎む様に、そして善から離れない様にすることのいついて、あえてこの場面では、神様の愛であるアガペーではなく人間同士の愛であり、それも男女の愛ではなく、兄弟の愛を持って互いに愛し合う様にと言うのです。

 もちろんこの兄弟とは血のつながった兄弟と言うよりも信仰の兄弟、キリストによって結ばれている兄弟としての愛で互いに愛し、その表れとして尊敬をもって互いに相手を優れた者と思う様にと勧めているのです。

そして、怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えるようにというのです。主に仕えるには、私たちは怠らず励むようにと勧められているのです。気が向いたらおこない、気が向かない時は行わないでいるようなむらのあるような活動ではなく、絶えず怠らずに行っていなければ成らないのです。

 さらに、それはただ惰性の様に習慣として行うのではなく霊の燃えて行わなければならないのです。霊に燃えて生き生きと力強く行って行くのです。私たちは、主に使えるカギはまさに霊の燃えることなのではないでしょうか。

 なぜかと言えば、私たちの力には限界がありますが私たちに必要な力を神の霊から頂いているとするならば、それは必要十分な力が与えられるはずだからです。だからこそ霊に燃えて主に使えなければ成らないのです。希望を持って喜び、苦難の時には耐え忍ぶ。そして喜びの時も苦しみの時もたゆまず祈りらなければ成らないと言っているのです。

 そして、聖なる者たちの貧しさを自分のものとするようにと言っているのです。聖なる者がいかにして貧しいのでしょうか。聖なる者はこの世のものに執着せずに、主のために働いているのです。聖なる者はこの世の欲望が満たされないから貧しくなっているのではなく、主のために働くために貧しくなっているのであり、その様な貧しさを自分のものとして、彼ら、すなわち主のために働いている聖なる者を助けるようにとすすけているのです。さらに聖なる者ばかりではなく、旅人をも、もてなすようにと求めるのです。

 自分を迫害する者のために祈る、それも祝福を祈るようにと言い、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣くように、喜びにある人にも悲しみの中にある人に対しても共感できるようにお言っているのです。そして思いを一つにして、高ぶらずに身分の低い人々と交わるようにと言っているのです。

 イエス様の時代には厳密な身分制度があり、一部の知識人にその下の平民層から、奴隷として、売り買いされていた人たちまでいたのです。その様な中でキリストの福音は全ての層の人々に等しく浸透していき、貧しい人々と呼ばれている比較的低位階層の人々の人数が増加していくと、社会的階層が教会の中でも問題となって来たのです。だからこそ高ぶらぬようにと高位の地位にある人々へと警鐘を鳴らしています。

 それと同様に、自分を賢い者思っていられるような人々、すなわち知識人に対しては、うぬぼれぬようにと言うのです。そして、だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけるようにと勧めが続くのです。

 そして、「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。」とその事が困難なことを承知で勧めるのです。本来ならすべての人が平和で暮らすのが良いのは決まっておるけれども、それを全ての人々に求めることができない現状から、主によって救われて人々はすべての人と平和に暮らすようにと願っているのです。

そして申命記32章35節や詩編94編1節にあるのを引用して、「自分で復習せずに、復習することは神に任せるように」と言い、さらに、「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」言い、「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」と進めるのです。

 争いによって真の平和は得ることはできない、悪に対しても善で対応する。その様なことがなぜできるのか。それは私たちの力ではなく神の霊の力によってこそ可能なのではないでしょうか。神の霊に燃えて神の意志をよく理解して実行していきたいと願うのです。

 

 

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