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抱き上げて言われた

聖霊降臨節第10主日礼拝 8月7日(日)

説 教 「抱き上げて言われた」  岸敬雄牧師

               聖 書 民数記11章24~29節   マルコによる福音書9章33~41節

 8月の第一週を日本基督教団では平和聖日と定めています。あの広島に原子爆弾が投下され、大変な大きな犠牲を出した第二次世界大戦の敗戦を迎える8月に平和の大切さを再確認すべき誠実と言う意味でありましょう。

 第二次世界大戦中において、当時の日本がアジアの諸国に大変な損害を与えた立場であることを心に留めて、その戦争にキリスト者も日本基督教団が賛成する形で協力したことを懺悔して、日本基督教団 戦争責任告白と共に思い出すことは大切なことでありでしょう。

 第二次世界大戦中に日本基督教団もキリスト者として戦争に協力したことを1967年3月26日 復活主日に日本基督教団総会議長 鈴木正久 の名前で第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白を出して、日本基督教団としての責任を明確に言い表しました

 しかし、いわゆる戦争責任告白と日本基督教団信仰告白を同格に考える方などもおられるようで混乱している部分は残念です。

 人が三人集まると派閥が出来、そしてどちらが優位であるかと言う争いが起こるのだと言います。もっと言えば、人が二人集まればどちらが優秀であり優位な立場に立つかと言う争いが起こるのではないでしょうか。そのような小さな争いが、果てには戦争の様な大きな争いへと発展して行ってしまうのではないでしょうか。この様な争いはイエス様の弟子たちの中でも例外なく起こっていたのでした。

 イエス様は一人の子供の手を取って十二人を呼び寄せた弟子の真ん中に立たせ、抱き上げて「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」と言われたのです。

 この様に言われたのは、イエス様一行がカファルナウムに来て家に着いた時に、弟子たちに途中で何かを議論していたのをイエス様がお尋ねになった後の出来事です。

 弟子たちは、イエス様に、議論していたことについて黙って答えませんでした。どうして黙っていたかと言えば、弟子たちは、途中で議論していたのは「だれがいちばん偉いかと議論し合っていた」からでした。

 誰が一番偉いのかと言う様な議論は、イエス様が望まれるような議論ではないことを、弟子たちも理解していたからこそ、弟子たちは黙っていたのでした。

 そんな弟子たちを、イエス様は直接お叱りにはなりませんでした。そして、イエス様は座った後に十二人を呼び寄せて「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」と言われたのでした。十二人を呼び寄せたのは、おそらく弟子を代表して、十二使徒を呼び寄せたことを表していると思われます。

 そして、その先に言われた、いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になることを知らせるために、一人の子どもの手を取って彼らの真ん中に立たせ、その子どもを抱き上げてから「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」と言われたのでした。

 

 イエス様御自身が手を取って、十二人の真ん中に立たせたのです。そして立たせるばかりではなく、その子どもを抱き上げてから言われたのです。イエス様の子どもに対する行動は、強調されている様に感じられます。

 手を取って立たせ、そして抱き上げたのは、イエス様が、子どものような力の無い、あるいは弱い者に対して、愛を注がれる姿が表されています。

 そして、どの様な事を言われたかと言えば、「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」と言われたのです。

 イエス様は、自分がいま抱き上げている子どもと、小さな者、無力な者とご自分を同一視する事によって、小さな者、無力な者を受け入れる事がイエス様を受け入れるのであり、さらにイエス様を受け入れることは、弱き人々に仕えることにより、すべての人に仕える者となることを教えているのであり、イエス様に仕える者として一番先に行く者となることを示されているのです。

 そして、イエス様に仕える者で一番偉い者は、一番弱い人々に仕えることが出来る者なのです。しかし、この順位は決定したものでは無く変わるものなのです。

 そして、話が変わったように、ヨハネが話し出したことが描かれています。ヨハネはイエス様に「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」と

言ったのでした。しかし、それに対してイエス様は、「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。 はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」と言われたのです。

イエス様の寛容性は、弟子たちに対する好意をイエス様ご自身への好意としてお受けになる、そして、一杯の水を飲ませるような、小さな行為であっても、イエス様に対する好意は忘れられないといわれているのです。

 私たちは、イエス様の弟子たちに対しての行為はどうでしょうか。イエス様の弟子である教会員はみな、仕え合うべきなのであり、主イエス・キリストに仕えるように、弱き者、力のないものにこそ仕えて行くべきなのです。

 

 

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