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今や、恵みの時

聖霊降臨節第9主日礼拝 

説 教 「今や、恵みの時」  岸敬雄牧師

                聖 書 詩編18章23~31節 コリントの信徒への手紙二6章1~10節

 本日の新約聖書の箇所においてパウロは自分のことを、「神の協力者」として、コリントの教会の教会員に対して勧めを行っています。「神の協力者」とは、パウロはどの様に考えていたのでしょうか。それは使徒として神との和解の業の共同者として働いていると言う自覚を持って勧めを行っているのです。

 神との和解とは、本日読んでいただいた新約聖書の直前の箇所コリントの信徒への手紙二5章19~21節で

「  つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。 ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。
  罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」といっています。和解とは、神と私たちの和解のことであり、その為に神は人々の罪の責任を問うことなく、 罪と何のかかわりもない方、そ縄稚独り子主イエス・キリストをわたしたちのために罪となさったのです。そして御子イエス・キリストによって私たちは神様から義と見ていただけるようになり和解していただけることが出来るようにして頂けたのです。

 主イエス・キリストの十字架により私たちの罪が贖われて、そして主イエス・キリストの復活により、私たちも復活の恵みにあずかり、永遠の命の希望を持つことが出来るようになったのです。

 だからこそ、パウロは神の協力者として、神からいただいた恵みを無駄にしないということです。では「神からいただいた恵み」とは何でありましょうか。それは前にも述べました通り神との和解にほかなりません。だからこそ、「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」と言い切ることが出来るのです。

 もちろん全ての救いが成就して、救いの業が終了したと言うことで「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」と言っているのではなく、真の救いの道が示され、御子イエス・キリストの福音によって救いが約束され、確かなものと成った。だから救いの日だと言っているのです。

 みなさんも、その様な実感をお持ちでありましょうか。パウロがコリントの信徒に手紙を書いている時の社会状況から考えて、「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」と言える状況だったのかと言えば、パウロ自身が「あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、 鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、」と言っているように、現在はまだ苦難の中にいるのが現実です。しかし、パウロは苦難の現実があるとしても、それであるにもかかわらず、「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」だと言い切っているのです。

 その根拠として神の御言葉として「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と言われたと言っているのです。

 ここでパウロが言っているのは、旧約聖書のイザヤ書49章8節「主はこう言われる。わたしは恵みの時にあなたに答え救いの日にあなたを助けた。わたしはあなたを形づくり、あなたを立てて民の契約とし、国を再興して荒廃した嗣業の地を継がせる。」とあるのを根拠とし、特に前半部分「主はこう言われる。わたしは恵みの時にあなたに答え救いの日にあなたを助けた。」と言う御言葉を根拠としたと思われます。

 神様がそのように言われた状況を私たちは受け身でいるだけではなく、「純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉、神の力によってそうしています。」と私たち自身が積極的に行っていると言うのです。

 「真理の言葉、神の力によってそうしています。左右の手に義の武器を持ち、栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。」と困難と神の恵みのように二つのものを対比して語ります。 苦難の時ほど神の使徒であるとこをパウロは実感して、神の偽りない愛を実感することが出来るのだと言っているのです。

 私たちは、苦難に会うより安易な道を歩むことを望むものであることをパウロも知っていたはずではありますが、その中においてもパウロ自身は人から「栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、 悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています」と言い切るのです。

 この様に真逆になるのは、世の中から見るのと主から見るのとの違いであり、人の側から見て、不利なように見えたとしても、主の側から見ると恵み多く、満たされる事なのでありましょう。

 人に知られていないようでいて、主によく知られているのです。この世的に死にかかっているとしても、「このように生きていおり」この様にとは、どのように生きているのか、それは、主により生きているのです。

罰せられるようで、幾度も命を狙われたとしても、主に守られている現在は殺されていない。悲しんでいる様で常に主によって喜んでいる。物乞いの様に人々に求めている様であっても、主によって多くの人を富ませているのです。

 無一文のようでも主によってすべてのものを持たされ得させていただき全てのものを所有していると言うです。

なぜ無一物のようで、すべてのものを所有しているのか。それは、本当に必要なもの、私たちが満たされるべきものは数多くのものでは無く、主との和解より与えられた神の恵みことが必要なものであり、神の恵みに持たされていれば酢で手に持たされることとなるのではないでしょうか。

 私たちはどうでしょうか。苦難の中でこそよく主を知りその恵みを知リ、主によって生かされ、主によって喜び、主によってすべてを所有しているでしょうか。神との和解のよって与えられた恵みを何よりも大切な恵みとして満足して暮らしているでしょうか。神から与えられて一番大切な恵みをいつも実感しつつ今週一週間も歩んでいきたいと願うものであります。

 

 

 

 

 

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