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ヘロデのパン種

聖霊降臨節第7主日礼拝 

                                                                 説 教 「ヘロデのパン種」  
                                                                聖 書 エレミヤ書23章23~31節    マルコによる福音書8章14~21節

 イエス様は船の中にいる時、弟子たちに向かって「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められたのでした。しかし、その事の真意を弟子たちは悟ることができませんでした。
マルコによる福音書では、そこまでしか書かれていませんが、マルコによる福音書8章14~21節の並行箇所に当たるマタイによる福音書の16章55節では、最後の12節ではっきりと「そのときようやく、弟子たちは、イエスが注意を促されたのは、パン種のことではなく、ファリサイ派とサドカイ派の人々の教えのことだと悟った。」と書かれていて、ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種とは、ファリサイ派とサドカイ派の人々の教えであることは確かでしょう。聖書に於いて分かり辛い部分を並行箇所などを見ることによって理解することは有益でしょう。
 先に書かれたと言われているマルコによる福音書には、はっきり書かれていないのにマタイによる福音書に書かれていることにも興味深い所はありますが、その事は置いておいて、この船の中においてのイエス様と弟子たちの会話の中から何を読み取ることが出来るのでしょうか。
 まず、弟子たちの状態として、「弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった。」と言う状況が書かれています。
イエス様と弟子たちが舟に乗る前に4千人への給食の物語が書かれているにもかかわらず、弟子たちは自分たちがパンを持って来るのを忘れしまっていたと言う失態を犯しています。
 そんな時にイエス様は「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と言われるのです。これだけを聞くと、イエス様が言われたことが唐突で、なぜイエス様がこの様な事を言われたのか、弟子たちの様に私たちも理解出来ずに戸惑う様にも感じます。
 しかし、この船に乗る前に、ファリサイ派の人々がイエス様を試そうとして議論を吹きかけ「天からのしるしを求め」たことを考えてみれば、イエス様がこのタイミングで話されたことも理解できたのではないでしょうか。
 天からのしるしを求められて、『イエスは、心の中で深く嘆いて言われた。「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」』と言われて、彼らをそのまま残して船に乗り込まれているのです。
 ファリサイ派の人々の考え方はしるしを求めるようなものであり、イエス様を試そうとする態度であることは、直前の出来事を見ても明らかです。
 そして、ヘロデの人々とは当時の支配者であるヘロデを支持する人々で、政治色の強い人々でありファリサイ派とは違う形ではあったかもしれませんが、イエス様のお考えを快く思っていなかったことは確かです。そして、時としてはファリサイ派の人々と共にイエス様を攻撃していたのでしょう。
 この様な、イエス様のお考えに反対し、イエス様の伝道の業を妨害する人々の考え方に、注意するようにと言われているのです。

 エレミヤ書23章においても主は、偽りの預言者や「互いに夢を解き明かして、わが民がわたしの名を忘れるように仕向ける。」者たちに対して、主は「見よ、わたしは仲間どうしでわたしの言葉を盗み合う預言者たちに立ち向かう」と言われ、『見よ、わたしは自分の舌先だけで、その言葉を「託宣」と称する預言者たちに立ち向かう、』と言われているのです。
 主の名を使い、自分の思いや預言したり、夢を解き明かしたと言って主の思いだと言って偽りを語り、主の民を惑わす者たちは旧約聖書の時代にも居り、その様な者たちに対して主御自身も立ち向かわれると言われているのです。

 イエス様が、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と言われているのは、まさに主の教えの様にして、自分たちの考えを人々に広めている人々と、その教えに注意するようにと言うことだったのです。
 それなのに弟子たちは、「これは自分たちがパンを持っていないからなのだ、と論じ合っていた。」のです。
物質としてのパンのみに心を奪われて、さらに自分たちがパンを持ってくることを忘れた失態にばかり目を向けていたのです。
 イエスはそれに気づいて痛烈に批判して、弟子たちに「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。」と言われたのでした。
 さきにも述べましたが、マタイによる福音書では、ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種とは、ファリサイ派の人々やヘロデ党の考えであることを述べましたが、敢えてそれをマルコによる福音書では書かないことによって、弟子たちの愚かなことをさらに鮮明に表しているのではないでしょうか。
 私たちも弟子たちの様に真の意味を理解せずに表面的なことで騒ぐことなく、この世の教えに惑わされずに、イエス様の教えをしっかりと受け止めて従って行くべきなのです。

 

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