過去の説教

洗礼者ヨハネの死

聖霊降臨節第6主日礼拝  

説 教 「洗礼者ヨハネの死」  岸敬雄牧師

聖 書  詩編33編4~11節   マルコによる福音書6章14~29節

 洗礼者ヨハネの生涯とはどの様なものだったのでしょうか。聖書の伝える所によれば、その誕生に際して天使から祝福として父親に伝えられ、主イエス・キリストより6か月ほど早く母の胎内に入り、まだ母の胎内に居る時に、主イエス・キリストがその母の胎内におられた時に訪問された際には、母の胎内で喜んでおどったと言われています。洗礼者ヨハネはまさに、母の胎内にいる時から、自分の使命を感じていた様にすら思えます。

 そして、命名される時にも、ヨハネと言う天使から告げられた名前を父親のザカリアが書き板に示すと、天使が告げたことを信じられずに口がきけなくなっていたザカリアは天使が言った通り口をきけるようになったのです。

そして、幼子は身は心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいたのでした。

 そして、イエス・キリストが公生涯と言われる宣教を始められる時まで、自分の神様から与えられた召しをはたすために備えをしていたのです。

 更に見て行けば、預言者イザヤの書に「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』と書いているように、主イエス・キリストの伝道活動の前触れとして道を整えたのでした。

 その内容としては、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝え、不正を行わない様に、持ち物を分かち合う様にと人々に教えていたのでした。

 人々からは預言者だとか、エリヤだと思われ、色々な階層の人々が数多く洗礼を受けに来て、ヨハネには弟子たちも出来ました。しかし、イエス様の宣教が進むにつれて、イエス様の弟子が多くなるにつれ、ヨハネの弟子は少なくなっていったのでした。

 そして、当時の権力者であるヘロに対して「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」と律法的に正しい事ではないと指摘したことにより牢屋に入れられてしまったのです。

 その上、ヘロデの誕生日祝いのに高官や将校、ガリラヤの有力者などを招いて宴会を行った際に、ヘロディアの娘の踊りを踊り、ヘロデを喜ばせた代価として首を切られて、娘に与えられてしまったのです。

 なんともはかない人生の終わり方のようにも思われます。イエス様からは、およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった、といわれるとともに、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。と言われた人物です。

 洗礼者ヨハネの働きは、イエス様の登場の前に現われて、悔い改めの洗礼を宣べ伝え、イエス様の宣教の道を整えましたが、その人生の中でなぜ、およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった、とまで言われたのにもかかわらず、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。と言われたのでしょうか。それはなぜかと言えば、主イエス・キリストを理解する面でかけている部分があったのです。

 洗礼者ヨハネがまだ牢に囚われていた時に、二人の弟子にイエス様に対して「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」とお尋ねしたのです。

 そこでイエス様は、ヨハネの使いの二人に答えて「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き思い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」とお答えになったのです。」

 洗礼をヨハネは、自分自身で、イエス様に洗礼を施し、イエス様の上に聖霊が鳩のように下った、その様子を近くで確認できていたはず。それにもかかわらず、イエス様が、自分が待つべきお方かどうかの確信が持てていなかったのです。

 洗礼者ヨハネは、人々に預言者であったと認識されたり、イエス様がヨハネの復活した姿だと思われるほどに多くの人に影響を与えましたが、死に際してはあまりにもあっけないように感じます。しかし、ヨハネが牢の中でイエス様の答えを聞き、自分が待つべき方がイエス様であると確信できていたなら、この人生の最後がどの様なものであろうとも大した関心は無くなっていたかもしれません。

 自分の使命を全うして、全てを神にお任せしている姿があったのではないでしょうか。聖書において洗礼者ヨハネは主役であったとはいえないかもしれませんが、精一杯神様を信じて神様に従った人生を送った人の一人であったのは確かでありましょう。どの様な最後を迎えたとしても、その人生が無駄なものであるかどうかは、神様にどの様に従ったからで決まるのです。

 詩編33編4~11節で語られている主に対する信頼の様な信頼を抱いて、「主が命じられると、そのように立つ。」との確信を持って、人の計らい、諸国の民の企て、すなわち人の企ては挫かれるのであり、人の思いではなく主の企てはとこしえに立ち、そして御心の計らいは代々に続くのです。それはこの世の生活が終わってもなお続いていくのです。

 洗礼者ヨハネも死というのは一つ区切りでしかなく、主の思い、主の業はさらに続いて行くことを知っていたからこそ、その最後は潔い最後であったと見る事も出来るのではないでしょうか。

 私たちも、この世での別れなどに際しても決してこれが最後の別れではなく、主によって永遠の結びつきを与えられていると信じる者は、主の企てを、そして御心の計らい信じて、この世での別れも乗り越えて歩んで行けるはずであります。そして私たちにとっては、この世から去るのは滅びの不安ではなく、この肉の苦しみを脱ぎさって、主による安らぎの中へ、御父のもとへの帰還する事なのです。

 

 

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