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総督の前で

聖霊降臨節第5主日礼拝

説 教 「総督の前で」  岸敬雄牧師

                 聖 書  詩編107編17~22節  使徒言行録13章1~12節

 パウロは、私たちにとって特別な宣教者であると認識されていることは確かでしょう。パウロ自身も自分のことを異邦人に対する使徒であると言っていますし、その活動は主に使徒言行録と彼の手紙というかたちで残されています。

 新訳聖書の中にある手紙の多くはパウロの名が書かれているものであり、中には彼の名前を使用した彼の信奉者、または弟子による手紙ではないか、一つの手紙が3通の手紙から出来ているのではないかなど色々言われるものもありますが、それであるにもかかわらず、パウロがキリスト教を体系的整備したことに関して大いに功績していることは確かです。

 パウロが、サウロと名乗っていたのをパウロと名乗るようになったきっかけとされているのが、本日の地方総督セルギウス・パウルスとの会見だったと言われています。

 パウロのキリスト教を体系的に神学として作り上げられていく過程において大きな影響を与えてことはたしかです。しかし、それと共に、やはりパウロは、その宣教旅行が代表するような異邦人宣教に代表される宣教活動に特に大な功績があったことは確かでありましょう。本日の使徒言行録の13章は、パウロの最初の宣教旅行の最初の部分となります。

 アンティオキアにあった教会には、バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、キレネ人のルキオ、領主ヘロデと一緒に育ったマナエン、サウロなど、預言する者や教師たちがいたと、サウロの同胞者であり、言わば先輩となるバルナバから始まり最後にサウロの名前で締めくくられています。

 最初期のキリスト教においても、パウロが宣教旅行を開始する以前にも、エルサレム以外にもすでに有力な教会があったことが示されています。

 アンティオキアにあった教会の人々は、主を礼拝して断食をしていると聖霊のお告げがあったと言うのです。礼拝特に祈りと断食は共に行われていたことは、聖書にはよく出てきます。断食をして一時的世的な事柄から距離を置いて、主に思いを集中すると言う様な意味があったのでありましょう。

 旧約聖書においてもエステル記4章などでは、王の前に出る前に自分の為に三日三晩の断食をしてくれる様にとエステルは自分の育ての親であるモルテガイに頼んでいます。この世の出来事からしばし離れて神生のことに集中する時には断食行うことはよくあったようです。

 アンティオキアにあった教会の人々に聖霊は、「さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために」といわれるのです。すると教会の指導者であった人々は、彼らは改めて断食して祈り、確信を得たうえで、二人の上に手を置いて出発させたのでした。

 頭の上に手を置く、按手礼の儀式は現在の私たちの教会に於いても正教師成る時等に行われるのを見ることがあるかもしれませんが、この時の二人、すなわちバルナバとサウロの頭に手が置かれたのは、二人に新たな仕事に当たるにあたりそれにふさわしい職に任じ、祝福が与えられたものと考えられます。

 そして、聖霊によって送り出されたバルナバとサウロは、セレウキアに下り、そこからキプロス島に向け船出し、サラミスに着くと、ユダヤ人の諸会堂で神の言葉を告げ知らせた。

 バルナバとサウロ、同胞者のヨハネたちはキプロス島に着くと島全体を巡ってパフォスまで行くと、ユダヤ人の魔術師で、バルイエスという一人の偽預言者に出会ったのでした。

 イエスと言う名前が、主であるイエス・キリスト以外にも一般的に使われていたことを知ることが出来る場面ともなっています。

 バルイエスが地方総督であるセルギウス・パウルスが神の言葉、すなわちパウロたちの教えを聞こうとするのを対抗したので、サウロと対決する事に成るのです。

 「パウロとも呼ばれていたサウロは」と、ここからサウロはパウロと呼ばれるように記載されるようになるのですが、パウロは聖霊に満たされ、魔術師をにらみつけて言ったのです。「ああ、あらゆる偽りと欺きに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵、お前は主のまっすぐな道をどうしてもゆがめようとするのか。今こそ、主の御手はお前の上に下る。お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう。」と言うのです。パウロは、総督の前においても雄々しく主イエス・キリストの御名によって語ったのでした。

 するとまさに、その通りになり手を引いてもらえる人を求めるようになってしまったのです。総督はこの出来事を見て、主の教えに非常に驚き、信仰に入ったのでした。

 パウロたちの宣教の結果はどうだったのでしょうか。地方総督が改宗したと言っても、他の成果は記されていません。そればかりか、助手として連れて行ったヨハネが、一行と別れてエルサレムに帰ってしまったのです。

 キプロス島における宣教は決して順調なものであったとは言えなかったのかもしれません。ヨハネが、一行と別れてエルサレムに帰ってしまったことは、結果として、バルナバとサウロが仲たがいしてしまう火種を作る結果となってしまったのです。しかし、人の思いを越えて神様の業は進められて行くのです。

 

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