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聖霊降臨節第3主日礼拝 

(父の日)

説 教 「神の子となる霊」  岸敬雄牧

聖 書 詩編12編2~6節 ルカによる福音書15章1~10節

 詩編12編は、悪が蔓延した世の中から主に対して救って下さるように願う祈りの詩です。詩編12編の作者は「主の慈しみに生きる人は絶え人の子らの中から信仰のある人は消え去りました」と信仰者がいなくなってしまったことを嘆きながら訴えています。「人は友に向かって偽りを言い滑らかな唇、二心をもって話します。」と人が自分の友に対して行う悪について言っています。悪はどこから訪れるかと言えばそれは、唇、舌、そして心を媒介として訪れると言います。

 悪満ちている世の中の状況と対比して、主が言われる言葉として「今、わたしは立ち上がり彼らがあえぎ望む救いを与えよう。」と救いを与えることを約束されるのだとも言われるのです。

 人の子らの中に主の慈しみに生きる人が絶えていると言いながらも、この嘆きを主に対して訴えている人に対して主は、彼らがあえぎ望む救いを与えてくださると言われるのであり、どの様な悪い世の中においても、主に従うものに対して、主は救いを必ず与えて下さると言い、約束されたことは忘れられることはないのです。

 

 本日の新約聖書はルカによる福音書の15章の「見失った羊」のたとえ話と「無くした銀貨」のたとえ話となります。この二つたとえ話には共有している内容があります。

 ルカによる福音書においては、並行箇所となるマタイによる福音書18章においての「迷い出た羊」のたとえ話とは差異があります。ルカにおいては一匹の羊は、自ら迷い出たのではなく見失われたのです。見失われたと言うことは、その後の無くした銀貨のたとえ話と同様に無くした方に責任があり、そして探し回る事に成るのです。

 なぜその様になっているのでしょうか。マタイによる福音書とは違いルカによる福音書では、このたとえ話が語られるに先立って、『徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。  すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。』と言われています。このたとえを聞かされている主体は、ファリサイ派の人々や律法学者で、イエス様が罪人たちを迎え入れている、そして食事まで共にしている。すなわちイエス様が罪人の仲間になっていると言って文句を言っているのです。

 もちろん罪人と言っても犯罪者として捕まってしまう様な人々のことを言っているのではなく、ファリサイ派の人々や律法学者たちが、守るべき戒めや信じている決まり事を守る事が出来ていない人々や、支配者層であるローマの手先と税金を徴収している人々を罪人と言っているのです。

 そんな罪人と見なされている人々、世間からはじき出されている人々をどの様に扱うべきかを問うているのが前提なって、このたとえ話は話されているのです。

 「百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。」一匹の見失われた羊のために、九十九匹を野原に残して、探しに行くと言うのです。なぜなら、見失った事の責任を取らなければなりません。九十九匹を野原に残して失う危険があるとしても実行しなければ成らない働きなのです。これは、人々から見て、見失われている人々、すなわち罪人と見なされている補と人を探し出ないと、ファリサイ派の人々等を非難する意味が込められているのです。

 さらに続いて見つけた時の喜び語られているのです。そして、見つかった羊を歩かせることもなく、そしてまた見失わない様に、肩に担いで帰るのです。そして帰り着いたならば、『友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。』といわれるのです。この世の中にある人々の間ですら喜びがあり、皆と分かち合うと言うのです。

 さらに、「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」と悔い改める一人の罪人については、地上以外にも天においても喜びがあると言うのです。

 さらに「無くした銀貨」のたとえについても同様の意味があり、「一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」と言われるのです。

 罪人が悔い改めることがそれだけ大変な喜びをもたらすと言っているのです。しかし、罪人とはだれのことか、それは、本来全ての者が誰でも罪人であり、神様に探していただく必要があるのです。

 そして、私たちが悔い改める事によって天にいっぱいの喜びがあるのです。さらに私たちの悔い改めによって天使たちにおいてすら喜びがあるのです。だからこそ、天において御父によって結ばれている教会員は、天使の様に喜びを分かち合うことが出来るのです。

 だからこそ、私たち自身が罪人であることを自覚して、悔い改めることによって、天において多くの喜びがあることを知り、その喜びは、私たち自信も含めた天に繋がっている全ての人の喜びとして、今週一週間も主にあって喜ぶものとして歩んでいきたいと願うのであります。

 

 

 

 

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