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真理の霊が来ると

復活節第6主日礼拝 5月22日(日) 

説 教 「真理の霊が来ると」  岸敬雄牧師

聖 書 創世記18章23~33節 ヨハネによる福音書16章12~24節

 旧約聖書、特に創世記を読んでいると気付かされることの一つに、神様と人間の近さがあります。あのエデンの園の様に神様の足音を聞いてアダムは恐れて隠れたり、アダムとエバは人と人とが話すよう主なる神と会話しています。

 本日の旧約聖書の箇所は、ソドムとゴモラを滅ぼそうとしてやってきた主を、見送りについてきたアブラハムのソドムとゴモラに対する執り成しの会話になります。この時もアブラハムは主と会話を行っています。アブラハムの主に対する問いは「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。」と言うものでした。

 主は、悪い者のために、正しい人まで巻き添えにして滅ぼすのだろうこといっているのです。そして、「あの町に正しい者が50人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。」といって、50人のために、町が救われるかと言っているのです。主は「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」と言われるのです。そしてアブラハムは、人数を5人ずつ減らして同様に町全体が赦されるかと問うと、10人まで至って、それでも町を滅ぼさないと言われ、主はアブラハムと語り終えると、去って行かれたのでした。アブラハムも自分の住まいに帰っていったのです。

 この物語は、何を語ろうとしているのでしょうか。確かに主は10人の善人のために町全体を救って下さると言われ、主の忍耐強いお姿が表されているのと共に、旧約聖書においての主は、人と語り合って下さるかたである。そして、人の思いをくみ取って下さる方であることが描かれているのではないでしょうか。その様な憐れみ深い神でありながらも、結果的にはソドムとゴモラに対しては。厳しい裁きが下されることとなってしまうのですが。その後、旧約聖書に中においても、主に対してその姿を見たら死んでしまうと言う様に、畏怖の対象として描かれて行く様になるのですが。

 それに対して、新約聖書における天父なる神は、どの様な御方と言われているでしょうか。

 多分、天父なる神を直接見て確認することは不可能でありましょう。ではどのようにして天父を知ることが出来るのかと言えば、それは御子イエス・キリストを見ることによって知ることが出来るのだと言っています。

 本日のヨハネによる福音書の16章においてイエス様は、聖霊について説明されていますが、「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。」と言われるのです。

 そして「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」といわれるのです。真理の霊、すなわち聖霊なる神が来られる時には導きがあり、真理をことごとく悟らせて下さるのです。そして、その語られる内容は、聖霊なる神は自分から語るのではなく、聞いたことを語ると言われるのです。聖霊なる神が語ることは、誰から与えられたものを語って下さると言っているのでしょうか。

 イエス様は、「父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」と言われるのです。

 さらに、イエス様は「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」と言われるのです。そして「あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。」と言われるのです。

 なぜなら「わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。」からだと言われるのであり、「あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。」といわれるのです。

 そして、「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」と言われるのです。

 その日は何時のことでしょうか。イエス様とまたまみえる日とは、全ての救いの業が終了する時に他ならないでしょう。その時にはすべてのことが知らされ、何も聞く必要がなくなり、私たちが望むものはすべて与えられると言っているのです。

 それは、現在も成就していませんが,私たちはこの約束が成就することを信じて、歩んでいくのです。

 

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