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まことのぶどうの木

復活節第5主日礼拝  

説 教 「まことのぶどうの木」  岸敬雄牧師

聖 書  出エジプト記34章1~10節 ヨハネによる福音書15章1~11節 

 本日の旧約聖書の出エジプト記34章1~10節は、一度受けた掟をもう一度受け直す場面の初めの部分です。モーセの帰りが遅いので、イスラエルの民は、自分たちで勝手に金の仔牛の像を作って、それに香をたいて自分たちの神だと言って大騒ぎしていたのでした。それに対して、主は32章9節~10節で『主は更に、モーセに言われた。「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。今は、わたしを引き止めるな。わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする。」』と言われたのです。それに対してモーセは執り成しを行い、主はそれによって思い直されました。

 モーセはすぐに取って帰りイスラエルの宿営の前で十戒の板を打ち壊し、悪を行ったものの粛清を行い、民の内の3000人が剣に倒れたのでした。

 一時は民を皆滅ぼすとまで言っておられた主が再びイスラエルの民に対して掟を与えられることとなったのです。この掟の中心は十戒となりますが、その準備のために、モーセは以前主から受けたものと同じ二枚の石の板を作って主のもとに赴いたのでした。

 モーセが主のもとに近づいた時「 主は雲のうちにあって降り、モーセと共にそこに立ち、主の御名を宣言された。」のでした。そして、「主は彼の前を通り過ぎて宣言された。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。」と御名が主であると宣言された後、自分がどれだけ憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ちているかをのべています。

 さらに主は「しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者。」と言われ、幾千代にも及ぶ慈しみを守ると共に罰すべき者は罰せずにはおかれない、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う厳格な厳しい神でもあると言われるのです。。

 父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者と言われるのは、以前にも出エジプト記の20章の4節~6節までにおいても、十戒の戒めの中で、「 あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、 わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。」と言っているのが、今回の場面でも繰り返されているのです。

 それに対して、モーセは急いで地にひざまずき、ひれ伏して、「主よ、もし御好意を示してくださいますならば、主よ、わたしたちの中にあって進んでください。確かにかたくなな民ですが、わたしたちの罪と過ちを赦し、わたしたちをあなたの嗣業として受け入れてください。」と主に願い出たのでした。

 確かにモーセも認めているようにイスラエルの民はかたくなな民であるのは確かです。それでは、主と繋がれてその枝となっている教会員である私たちは、かたくなな民となってはいないでしょうか。

  本日の新約聖書において、イエス様は自分をぶどうの木になぞらえて語られています。私たちと、天父なる神と子成る神、イエス・キリストとの関係を、ぶどうの木に譬えてイエス様は語っておられるのです。

 イエス様はご自分をぶどうの木になぞらえて「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」と言われるのです。農夫である天父なる神が、イエス様に繋がっている枝である私たちに対して世話をしてくださると言われるのです。そこに憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ちておられる神の姿が示されています。

 そして、どの様な世話がなされるのかと言えば、イエス様につながって実を結ぶか、実を結ばないかによって、それぞれの枝に対し対応が変わっていると言うのです。実を結ぶ枝に対しては、「いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。」と言われるのであり、イエス様に繋がっていながら実を結ばない枝は父が取り除かれると言われるのです。取り除かれる天父なる神には厳しさが感じられます。

 先にも述べましたが、この警告は、イエス様に結ばれたものとされたわたしたち教会員に対する警告として聞くことが出来るでしょう。イエス様に繋がっているだけではだめで、実を結ばなければ成らないと言うのです。このイエス様の言葉からすると何かしらの結果が求められているように感じられます。だとしたらどの様に実を結ぶことが出来るのでしょうか。

 「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」と言われるのです。私たちは教会員としてイエス様に繋がっていると思っていても、実はイエス様との繋がっている枝の部分が腐って繋がりが途絶えてしまっていたのなら実を結ぶことが出来なくなってしまいます。私たちがまず行わなければ成らないことは、イエス様と繋がっているかを確認しなければ成らないのです。

 それをどの様に確認するのかと言えば、「わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」と言われるのです。イエス様の言葉、言い換えるならばイエス様の教えをいつも私たちの内へと持っているならば、のぞむものをすべて与えられることが出来ると言われており、私たちがイエス様に繋がっていることを確認して、イエス様と結ばれていることを確認することも出来るのです。

 そして、「あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」のです。私たちはイエス様の弟子となって、イエス様に対して確かに繋がっていることによって、確かな実を結ぶならば、その結果として、天父なる神に栄光をお捧げすることとなるのです。

 さらに、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。」と、天父なる神が御子イエス・キリストを愛された様に、御子であるイエス・キリストは弟子であるあなた方を愛してきたと言われるのであり、わたしの愛にとどまりなさいと言われるのであり、言い換えればイエス様の愛の中でぶどうの枝の様に、確かな実をつける者として繋がり続けていなわいと言われているのです。

 同様に「わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」とイエス様が愛によって語られた様に、掟に対してそれを守ることに対しても掟を守ることによって、イエス様の愛の中にとどまっていることが出来るのだと言われるのです。

 どうしてイエス様が、この様な話をされてきたかと言えば「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」と言われるのです。

 結果として天父なる神に栄光をお捧げすることも、確かに実を結ぶのも、そしてイエス様の愛の中に留まるのもそれによって、私たちの中に喜びが満たされる為だと言われるのです。

 言い換えるならば、イエス様に繋がっているつもりでも、イエス様のために多くの実を結んでいるとしても、その中に喜びがあるかどうかをしっかりと確認してみなければ成らないのです。私たちに真に、イエス様が喜んでくださっていると同様の喜びがあるか、それが大切なのです。どの様な小さな事と思われる事に対してもです。

 イエス様は、私たちがイエス様にならって喜びに満たされるように、イエス様は、あの十字架にまでお架かり下さったのですから。

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