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私は羊の門

復活節第3主日礼拝  

説 教 「私は羊の門」  岸敬雄牧師

聖 書  エゼキエル書34章7~15節 ヨハネによる福音書10章7~18節

 エゼキエル書34章において、主の言葉を託された人の子と呼ばれている者は、牧者と呼ばれるイスラエルの指導者たちに対して、主の言葉をこの様に告げるのです。

 「わたしは生きている、と主なる神は言われる。まことに、わたしの群れは略奪にさらされ、わたしの群れは牧者がいないため、あらゆる野の獣の餌食になろうとしているのに、わたしの牧者たちは群れを探しもしない。牧者は群れを養わず、自分自身を養っている。」と牧者のことを批判しています。もちろんこれは、イスラエルの指導者たちが民のことを思わず、自分たちのことばかりを考えている自己中心的な態度に陥っていることを批判しているのです。

 更に主なる神様はこのように言われていると言うのです。「主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。」と牧者たちが探しもしないと言われている群れに対して、神様自らが群れを探し出して下さるといい、さらに「わたしがわたしの群れを養い、憩わせる、と主なる神は言われる。」といわれ、神様の群れに対して、養って、憩わせることまで約束してくださっているのです。

 イエス様がヨハネによる福音書10章で、自分のことを良い羊飼いであると言われていることとエゼキエル書34章で神様がご自分の羊の群れに約束されていることのが、オーバーラップして感じられます。

 イエス様は、ご自分のことをエゼキエル書34章で言われている様な悪い牧者ではなく「わたしは良い羊飼いである。」と言われるのです。そして、「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」と言われるのです。

 イエス様と御父なる神との交わりは、まさに一致と言って良い交わりであると言われますが、イエス様とその羊であるイエス様を信じる人々との交わりが、天父と御子の交わりと同様の交わりだと言っているのです。

 もっと正確に言えば、私たちイエス様を信じる者たちは、父と子の交わりの様な、交わりをも子と持つことが出来るようになれると言っているのです。父と子がどの様な交わりであるかを示すために「父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。」と言われるのです。

 イエス様は「わたしは羊のために命を捨てる。」と言われるのです。御父の思いを知っているからこそ、それを実行するために自ら命を捨てると言うのであり、それは私の人時、すなわち、イエス様のことを信じる人たち、もっと言うならば私たち自身のために命を捨てると言われているのです。

 ただし、イエス様が命を捨てるのは、「命を、再び受けるために」なのです。私たちのためとはいえ、自ら命を捨てられたのは、ただ捨てるだけではなく、その先に「命を、再び受ける」事の為であり、そして、この再び受ける命の恵みを私たちに及ぼすために自ら命を捨てられたのです。

 そして、これが「これは、わたしが父から受けた掟である。」と言われるのです。

 イエス様は人に命を奪われるのではなく自ら命を捨てられたのです。再び受けるために、そして私たちも一度は死んだ後に再び命を受けることが出来るようにして下さるためにです。

 あの十字架の上で苦しまれ命を落とされたイエス様の出来事は、イエス様ご自身が選ばれて命を捨てられた行為であり、それは再び得る命、復活に至る為の行為だったのです。

 そして、それは私たちに復活の恵みを与えて下さるためだと言っておられるのです。

 イエス様が来られたのは、羊すなわち、イエス様の声を聞いてしたがう者たちが命を受けるため、しかも豊かに受けるためなのです。だからこそ、イエス様は「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。」と言われるのです。イエス様という門をくぐった者のみが救われるのだと言っているのです。

 イエス様を通して入る者が救われるのです。私たちの救いに至る門は、主イエス・キリスト以外ないのです。私たちは、主イエス・キリストに従うことを洗礼によって示し、イエス・キリストと言う門を入り救いへの道を歩み続けて行くのです。私たちの良き羊飼いである主イエス・キリストに従いながら喜びを持って歩み続けるのです。

 

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