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私の手を見なさい

復活節第2主日礼拝 

説 教 「私の手を見なさい」 岸敬雄牧師

聖 書  民数記13章17~33節 ヨハネによる福音書20章19~31節

 

民数記13章では、エジプトを出てモーセ一に導かれて苦しい荒れ野の旅を続けてきたイスラエルの行が、やっと約束の地、カナンの地の入口までやってきた場面です。

モーセは、約束の地を偵察するために、部族ごとに一人ずつ、それぞれ、指導者を送ったのでした。そして40日の間カナンの地を探ってきた人々は、「一房のぶどうの付いた枝を切り取り、棒に下げ、二人で担いだ。また、ざくろやいちじくも取」って戻って来たのでした。ぶどうの一房と言っても、棒に通して二人ででないと持って来られないほどのものと他にもざくろやいちじくを取って来たと言うのは、偵察に行った土地は、間違いなく豊かな土地であることを表しています。

 そして、モーセに報告して「そこは乳と蜜の流れる所でした。これがそこの果物です。しかし、その土地の住民は強く、町という町は城壁に囲まれ、大層大きく、しかもアナク人の子孫さえ見かけました。」言ったのでした。

 偵察に行った土地は良い土地に違いはないが、しかしそこに住んでいる民は軍事的にも強く、町は大きな城壁に守られていて、背が高くて手ごわい民と考えられていたアナク人すらいたと報告したのです。そしてイスラエルの民の心をくじいてしまったのです。

 しかし、ユダ族で、エフネの子カレブだけが進んで攻め入るよう「断然上って行くべきです。そこを占領しましょう。必ず勝てます。」とモーセに進言したのです。

しかし、彼と一緒に行った者たちは反対し、「いや、あの民に向かって上って行くのは不可能だ。彼らは我々よりも強い」と言い、カレブに賛成したのは、エフライム族の、ヌンの子ホシェアだけでした。ヌンの子ホシェアのことをモーセは、ヨシュアと呼んでいました。あの十戒の板を受けた時に同行していた人物です。

 話しを戻しますが、共同体全体は声をあげて叫び、民は夜通し泣き言を言った。その結果として、エフネの子カレブとヌンの子ヨシュア以外の二十歳以上の者はだれ一人、神様が住まわせると言われたた土地に入ることは出来なくなってしまい、イスラエルの民は、四十年間荒れ野をさまよわなければならなくなったのです。民を率いてきたモーセまでも、強く願いながらも約束の地を見るだけで入ることは出来なかったのです

 本日の場面はまさに、イスラエルの民にとっての大きな分かれ目となった出来事の場面だったのです

 大きな分かれ目と言えば、本日新約聖書におけるディディモと呼ばれるトマスにとっても、本日の経験は大きな分かれ目だったと言えるのでしょう。

 『週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ』のでした。その様な弟子の中にトマスはいませんでした。

 ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは、復活したイエス様にほかの弟子たちに訪れた時にたまたま不在だったため、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と言い張ったのでした。

 すると、今度はトマスも含めて弟子たちが集まっている所にイエス様が現れトマスに言われたのです。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と語り掛けられたのです。それに対してトマスは、「わたしの主、わたしの神よ」と答えたのでした。一見答えがちぐはぐの様にも感じます。イエス様の信じる者となるようにと言われるのに対して、もう「信じます」などと言う答えではなく、自分が何を信じるのか、それは「わたしの主、わたしの神よ」と答えるのが精いっぱいだったのです。

 そこに更にイエス様が信じる者となるようにと言われたのに対して「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と言われるのです。

 トマスは、今までの信じない者のままでいるか、信じる者へと変えられたのです。そして、トマスは主を証しする伝道者としてしっかり立って歩んで行くことが出来たのです。

 そして、イエス様が言われた「見ないのに信じる人は、幸いである」という御言葉は私たちにとっても特別の意味を持って響くのではないでしょうか。私たちは肉の目に於いてイエス様を見ることはできませんが信じる者なのです。

 もっと言うならば、私たちは見ることがなくても信じることが出来るのだと言われているのであり、そして私たちも変えられることが出来るのです。そして、私たちは、分岐点に立った時に主の声に聞き従って歩んで行くことこそが大切なのです。

 

 

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