過去の説教

わたしは主を見ました

復活祭(イースター)合同礼拝

説 教 「わたしは主を見ました」 岸敬雄牧師

聖 書  イザヤ書42章10~16節 ヨハネによる福音書20章1~18節

 

 今日は復活祭、イースター礼拝となります。

イザヤ書の42章に於いて神の勝利を「新しい歌を主に向かって歌え。地の果てから主の栄誉を歌え。」と言い、「行く手の闇を光に変え曲がった道をまっすぐにする。わたしはこれらのことを成就させ見捨てることはない。」と信頼を高々に歌い上げるのです。ただ、イザヤ書も全66章の中の後半に入る42章で、神様からの召命の記事があり、本日読んでいただいた42章に続く箇所では、捕囚からの解放について語られて行くのです。

 そのことから考えると本日の神様の勝利により見捨てられる事がないと言っているのは、現在は捕囚の中にある出来事であると言う事に成ります。

 捕囚の中で虐げられ、神殿があった時の様に思う様に礼拝もできない、いえむしろ異邦人から迫害され嘲笑されている暗黒状態の中に於いて与えられた者であると考えて良いでありましょう。その様な暗黒の中においても自分たちの捕囚からの解放の前には神様の勝利があってこそだと言うのです。神様の勝利こそが私たちの救いの源であるのです。

 神様の勝利、それを最もよく表している出来事として、復活の出来事について、本日はヨハネの福音書から復活の出来事を聞いて行きたいと思います。

 以前に、夜の明ける前が一番の暗い、などと言われるのを聞いたことがあります。イースター、復活の出来事が明らかになるまでの数日は、イエス様の弟子たちにとってはまさに夜明け前の暗闇の中にいるような思いだったのではないでしょうか。しかし、その様な暗い思いの中でも弟子たちの中には、自分の行うべきことを理解して、行動に起こして人々がいたことを聖書は示しています。ヨハネの福音書では、そんな婦人たちをマクダラのマリアに絞って、個人の行動のように描いています。

 「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った」とヨハネによる福音書では伝えています。週の初めの日とは、金曜日の夕方から土曜日の夕方までが安息日だったので、安息日が終わり新しい週に入った日、それは日曜日のことになります。

 日曜日の朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に向かったのでした。ヨハネによる福音書の作者は、墓に初めに行った人物を、マクダラのマリアだけに絞り、個人としての出来事としてとらえています。そして、マグダラのマリアが、何の目的で墓に向かったかは書かれていませんが、はじめに彼女が見たのは、墓の入り口の石が取りのけてあることでした。

 そして、その後の彼女の具体的な行動は書かれていませんが、「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません」と言っていることから、墓の中を確認したのは確かでしょう。マグダラのマリアは、墓の中にイエス様のご遺体が無くなっているのを確認すると、すぐに弟子のところへ走っていったのでした。

 そしてシモン・ペトロのところへ行き、ペトロとイエスが愛しておられたもう一人の弟子に、「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません」と伝え、復活したとは言わずにご遺体が無くなったと言う事実だけを告げるのです。

 すると、ペトロとイエスが愛しておられたもう一人の弟子は、競う様にイエス様の墓へ向かって走ったのでした。 そして先に墓に着いたのはもう一人の弟子の方でした。その弟子が身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあったのを確認したのでした。しかし、まだ中までは入らなかったのです。その後、後からやってきたペトロは、中に入って「イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。」ことまで確認した時に、もう一人の弟子も入ってきて、見て信じたのでした。

 ただ、信じたのはイエス様が居なくなったことだけで、「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」と言われているように、弟子たちは理解できていなかったのです。ここではまだ二人に弟子は、復活の事実を理解出来ずに家に帰っていったのでした。復活の出来事は、人の側からは理解することができない出来事だと言っているようです。

 それから、話しは再びマグダラのマリアへと戻されます。マリアは墓の外に立って泣いていました。そして、泣きながら墓の中を覗き込んだのでした。すると白い服を着た二人の天使がイエスの遺体の置いてあった所に座っていたのです。そして二人は彼女に、なぜ泣いているのかと泣いている原因を訪ねるのです。

 マリアは依然として復活の出来事に思い当たることなく、イエス様が亡くなられ、そして、その体が失われてしまったことを悲しんでいたのを伝えたのでした。

 マリアは悲しんでいると、見知らぬ男性から声を掛けられるのです。マリアは、園丁だと思って言ったのでした。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」と。するとマリアは、「マリア」と言われて振り向き、初めてイエス様だと気付くのです。そして、「ラボニ」ヘブライ語で「先生」言ったのでした。

 イエス様の側から呼びかけられて初めて理解できたのです。あのイエス様が宣教を行われていた公生涯と呼ばれる約3年間の間、ほとんどを一緒に過ごして教えを受け何度も死と復活について教えられていた弟子たちですら思い当たらなかったのに、イエス様から名前を呼ばれた途端に理解できたのです。そして、イエス様に制止されなければ、すがりつくとほどだったのです。

 そして、はっきりと変わったのです。「わたしは主を見ました」と弟子をはじめ、人々に告げる者として、そして弟子たちにイエス様が言われたことを告げたのです。

 イエス様から声を掛けられ、目を開かれて、復活の事実を知らされたマリアは変えられたのです。泣いて悲しむ者から、証しする者へと。これは人の力で起こったのではなく、イエス様の側からの呼びかけで起こった奇跡であることは確かですが、私たちにも起こる奇跡なのです。

 

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