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栄光に輝く王

受難節第6主日礼拝  

説 教 「栄光に輝く王」 岸敬雄牧師

聖 書  詩編24編1~10節  マルコによる福音書14章32~42節

 

 詩編24章にて、「地とそこに満ちるも、世界とそこに住むもの」すなわち全てのものは、主のものだと言い「大海の上に地の基を置き潮の流れの上に世界を築かれた。」と自然の創造の業も主の業であると主張しているのです。

 その様な主が人を祝福して下さり、救い主は恵みを与えて下さると言うのです。「栄光に輝く王とは誰か。万軍の主、主こそ栄光に輝く王」その王こそが私たちの救いの王であり、「強く雄々しい主、雄々しく戦われる主」だと言うのであります。

 その様な力強く、栄光に輝く主はどの様に雄々しく戦って下さるのでしょうか。私たちの歴史の中においては、それは、人の眼にほとんど触れることもなく、知られる事も場所で一つの山場を迎えようとしておいたのです。。

 それは、イエス様の一行がゲツセマネと呼ばれる園へと訪れた時でした。このゲツセマネと呼ばれる園は、イエス様が普段よく弟子たちと集まる時に行かれていた場所でした。

 その様な、外見的には一般的な日常と変わりない行動が、その日だけは特別なものとなっていました。イエス様は弟子たちに対して、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われたのでした。そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを伴われ、もう少し離れた所までいかれ、そして、イエス様はひどく恐れてもだえ始められたのです。

 なぜ、ペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを伴われたかについては、聖書には書かれていませんが、ヤイロの娘が生き返った時や、イエス様のお姿が変わった変貌の出来事など特別な出来事の時に、イエス様は、この三人をお連れになっていたことは確かです。では、ゲツセマネの園で、どの様な特別のことが起ころうとしているのでしょうか。

 これからそれほど特別な事が起きよとしていたのです。そしてイエス様は「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい」と言われるのです。

「死ぬばかりに悲しい。」とは直訳的には、「死に至るまでに悲しい」と言うこととなり、意味的に訳すとすると「心身を滅ぼすほどに大きな悲しみ」とも、「むしろ死を願うほどの大きな悲しみ」とも取れる言葉なのです。だからこそ、ペトロ、ヤコブ、ヨハネには「ここを離れず、目を覚ましていなさい。」と言われたのであります。イエス様が宣教を始められて、恐れる様子を示されたのは初めてであります。

 そして、イエス様だけが少し進んで行って地面にひれ伏したのでした。まさに地にひれ伏す姿は、最も謙遜な姿であり、イエス様は最も謙遜なお姿を取って、「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」と、できることならこの苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈られたのです。

 神の独り子であり、神であられる主イエス・キリストであっても、私たちと同じ肉の体を取ってこの地上においでになられ、そして死んだほうがましだと思えるほどの苦しみをお受けになり、そして、全てのことがお出来になる天父なる神に、この杯を取りさられるようにと願われるのであります。

 しかし同時に、「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」と天父なる神に従いとうされるのです。どの様な苦難の中においても、自分の思いは脇において、第一に御父なる神の思いが成るようにと祈られるのであります。正に祈りの模範がここにあります。

 そして、イエス様が祈り終えてペトロ、ヤコブ、ヨセフの三人の元に戻ってみると弟子たちは眠っていたのでした。そこでイエス様は、『ペトロに言われた。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」』と言われたのです。

 シモンが、弟子たちを代表しているのは確かでありましょう。そして、イエス様は、三人に、今度は「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。」と具体的な指示を出すのです。それは神の国の到来を前にしたサタンの攻撃、具体的には誘惑に対して注意をして祈っているようにと言っていられるのです。

 さらに、「心は燃えても、肉体は弱い。」と言われるのです。ただ、ここで心と訳されているのはニューキングジェームスバイブルでは、The spiritと訳されているように、霊を示していて、霊が強くても肉体は弱いと、霊と肉を対比して言っているのです。

 この肉の弱さは、イエス様を置いて逃げ出したり、ペトロなら鳥が鳴くまでにイエス様の事を三度知らないと言ってしまうような、裏切り行為を行う事を暗示しています。

 それでも、弟子たちは眠ってしまっていたのです。祈っておられるイエス様と、眠ってしまっている弟子たちの対比がまさに鮮明です。そして、ついにイエス様を裏切る者が到着してしまうのです。

 ゲッゼマネの祈りから、私たちは何を知ることが出来るのでしょうか。イエス様が祈られている様子は、イエス様が私たちに教えて下さった、主の祈りと共に祈りの模範です。それと共に、弟子たちの姿を通して、霊は強くとも肉は弱い、そして肉に負けてしまう自分たちの姿をかえりみることも重要なのではないでしょうか。

 そして、主が言われるように、誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈続けて行くのです。主に助けを求めて。そして救いが実現する希望を持ち続けて行くのです。

 

 

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