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先頭に立って進まれるイエス

受難節第5主日礼拝  

説 教「先頭に立って進まれるイエス」 岸敬雄牧師

    聖 書  詩編22編25~32節   マルコによる福音書10章32~45節

 詩編22編の作者は「すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り国々の民が御前にひれ伏しますように。」と願っています。そして、「 王権は主にあり、主は国々を治められます。」と言うのです。

 「この地に住む者はことごとく主にひれ伏し塵に下った者もすべて御前に身を屈めます。」と言うのです。主が真の王であり、真の王に対してこの地に住む者はことごとくひれ伏し、そして、塵に下った者、すなわちもうこの世から去ってしまった人々も御前に身を屈めると言うのです。

 イエスらエルの人々は、周りの国々の王から絶えず脅かされ、例えばバビロンに捕囚にされたり、イエス様の時代にはローマに支配されたりと、多くのこの地上の王によって迫害を受けていたのです。だからこそ、真の王を求めているのです。真の王は地上の王ではなく、主であると理解し、そして真の王なる種に全ての人々が身を屈めている様子を幻で見ているのです。

 本日のマルコによる福音書においては、真の王であられるイエス様が弟子たち一行と共にエルサレムへ上って行く途中、イエス様は先頭に立って進んで行かれた。その姿は、詩編で歌われている真なる王である主の姿を連想させるものであったでしょう。しかし、この様に先頭に立って進んで行かれるイエス様のお姿を見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れたのでした。

 ここで、弟子たちとその他のつき従っている人々の違いが描き出されています。イエス様はもう2回も死と復活について話されていました。これからイエス様が向かわれる先には苦難が待ち構えていることを弟子たちは知っていたのです。それにもあかくぁらず、先頭にったって雄々しく進んで行かれるイエス様の姿に対して、弟子たちは驚きを感じたのです。そして、その他の付き従っている人々は、これから起こることに対して恐れが広がってきていたと言うのです。

 イエス様を待ち受けているのは、ひと時は、人々の歓迎であるかもしれませんが、その先にイエス様を待っているのは苦難であることを弟子たちは知っていたのであり、苦難に向かって先頭に立って進んで行くイエス様のお姿に、イエス様が宣教中にずっと同伴していた弟子たちさえ驚きを禁じ得なかったのです。この緊迫している状況の中で、改めて、イエス様は再び十二人を呼び寄せて、改めて、「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」と自分の身に起ころうとしている苦難について、そして死と復活について語られたのです。

 これで、イエス様が死と復活について語られたのは3回目となります。このようにイエス様が死と復活について語られたにもかかわらず、その後すぐに、ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエス様にとんでもないことを申し出たのでした。それは、「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」と言うことでした。

 それに対してイエス様は、彼らがどの様な望みを自分たちが抱いているのかと言うことに対して自覚がなく、自己中心的に望みを願い出ていることをお知りになっているうえで「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼をけることができるか」言っているのです。それに対してゼベダイの子ヤコブとヨハネは「できます」と言ったのでした。

 それに対して、イエス様は、確かに「あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。」とヤコブとヨハネに対する受難も避けられないことを認められたのでした。しかし、それとは別に、「わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」と言われ、ヤコブとヨハネ求めることは、人が求めて得られるものでは無いことを示されるのです。

 それに対して「ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めたと言うのです。ほかの使徒達も、ヤコブとヨハネ同様にイエス様が受けられると言われている苦難についていまだ本当に意味で理解出来ずに苦難の先の栄光にばかり目が向いている、弟子たちの自己中心的な態度が浮き彫りになっているのです。

 皆様がイエス様であったならどの様に思われるでしょうか。これから耐え難い苦難に向かって歩んでいる時、従ってきている一番身近にいる者たちですら、自分のことしか考えていないとしたらどうでしょうか。私でしたら、とても耐えられないような気がします。

 しかし、イエス様は「いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」と弟子たちをさとされるのです。無理解で、自分のことしか考えていないような弟子たちの姿を聖書は敢えて隠すことなく伝え、それと対照的に苦難に向かって先頭に立って進まれるイエス様のお姿をも浮き彫りにして描いています。

 私たちも至らない弟子の一人でありましょう。そんな弟子であろうとも、決して見捨てることなく、イエス様は先頭に立って導いて行って下さるのです。ご自分がどの様な苦難に向かわれる道であろうとも導かれるイエス様に、私たちも従って行くのです。どの様な苦難があろうとも。

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